2010年3月20日 (土)

【第16期記念文集】くずてつ作文「父ちゃんは相談員」全文掲載

父ちゃんは相談員

くずてつ

 

父ちゃんはね。

父ちゃんは、きみたちが生まれる前からずっと、家にはなかなか帰らない仕事をしているんだ。そうはいっても、月のうち半分は一緒に夕飯を食べられるから、まだいい方だと思うんだけどね。

だから、家族一緒にいられることのヨロコビはもしかしたら他のおうちのお父さんより、大きいかもしれない。君たちが生まれる前から、もうずっとこうだからね。

さみしいこともある。残念に思う夜もある。でも父ちゃんはこの仕事が大好きなんだ。それは君たちもわかるだろう?

 

ここの仲間はみんないい人で、父ちゃんはたくさんのいい人に恵まれてきた。mも、siも、soも、みんなここで大きくやさしく強く賢く育ててもらえたと思ってる。

 

だから今、父ちゃんは仲間のみんなの理解と協力を得て、できるだけYくんやSくん、Rちゃんがお母さんと一緒にセンターにいることができるようにしてあげている。仕事のやりやすさ、とは違う、もっと大事なものがきっとあると信じるからだ。

 

気がついているだろう。

 

たとえばYくん。こないだのフットサルの練習では、中学二年生の男の子のキーパーと競り合っていた。Yくんは小学2年生だぞ。そしてあいつ、ゴールも決めてた。アシストは6年生のタロウからの、これ以上ないってくらいきれいでやさしいラストパスだった。でかい子と競り合えるのも、パスが出どころに走りこめるのも、信頼があってこそだよな。

 

Sくんはわんぱくで、にぎやかで、お騒がせだけど、Sくんがいつも何を連れて来てくれる?元気と、明るさだよな。Sくんがくると、みんな迎えに行く。Sくんが笑うと、みんなも笑う。Sくんは幸せ、みんなも幸せ。

 

そしてRちゃんだ。Rちゃんが来てやわらかい顔をするのは、何も女の子だけじゃない。男の子もそうだよな。言葉はまるで通じなくても、でも通じるものはちゃんとある。相手に言葉がなくたって、わかろうとすればわかることができる。悪気のないめちゃくちゃがあって、めちゃくちゃなやさしさがそれを包んで許して溶かす。

 

14人のこどもたちが、ちびっこたちの偉大な兄、姉となってて。その偉大な兄、姉たちが、ちびっこからたくさんの学びをもらって。そして響きあうように育っていく。

 

人は人の中で育つんだ。人は人のなかにいたいんだ。そんなことができるセンターが、父ちゃんは大好きだ。

 

だけど、父ちゃんにはせつないこともある。今日、今、お前たちのそばにいてやりたい、というときに、そばにいてやれないことがある。そんじょそこらのことじゃくじけないお前たちだし、母ちゃんもちゃんとついてくれてるけど、それでも父ちゃんが伝えてやりたい、教えてやりたい、それは今なんだ、ってことを、父ちゃんはいてやれなかったことがある。

 

たとえば、例えば今年の冬。

 

山の村村長に苑生が立候補し、演説文を書き上げる日。父ちゃんはセンター当番で、園生の中で立候補した子の作文指導をしていた。もちろん、最高の作文が書けるように指導した。「父ちゃんはそうするからな」とsoにも言った。soは「わかってる。大丈夫」と言った。

 

また他の日、明日は演説という日。父ちゃんはセンター当番で、園生の立候補者の演説練習を繰り返し指導していた。人の心をつかむ演説ができるよう指導した。「これなら、勝てる」と思うまで練習した。「相手はsoちゃんだよ」と、誰かが言った。ちりっと心が傷んだ。だけど、「オレはセンターの相談員だからな」と笑いながら答えた。きっと、そう答えたこともsoはわかってくれると思った。

 

星飛雄馬と星一徹は、こうだったのだろうか。

 

翌日、演説が終わり、「ねえ、ほめられたよ~」と園生が帰ってきて言った。「すごくいい発表だったて、学校の先生が言ってくれた!」 選挙の結果は後日発表なので、この時点では誰が当選したかわからない。だけど、園生の目は輝いていた。やりきった人が見せる目をしていた。よかったなあと思った。

 

夜うちに帰り、soに同じことを聞いた。soは静かに、「大丈夫だった」と答えてから、ちょっとはにかんだ。満足行く出来だったのだろう。父ちゃんはたいしたことをしてやれなかったが、そうか、大丈夫だったか、と満足したり、でもほんとにそうだったのかと不安に思ったり。

 

結果は結果として受け入れるしかない。それも投票なのだ。でも、小さな学校で、気持ちを奮い立たせて2人は戦った。それを難しい立場でかかわることになり、園生指導に全力を傾け、わが子に何もしてやれなかった父ちゃんだったけど、それぞれがやるべきことをしっかりやって、やりぬいて、そして今を迎えられたことは、きっとよかっんだと思う。

そして何より、小さな学校の選挙戦の渦中もその後も、仲良くしている2人のことを、父ちゃんはものすごく素晴らしいと思っている。感謝している。

 

父ちゃんの仕事は、おまえたちのそばに、いつもいれない、すぐ行けない。でも、どこかでお前たちとつながっていて、今を紡いでいる。

 

 そしてまた思うんだ。14人の園生たちの、お父さんお母さんのこと。兄弟のこと。一緒にいられないさみしさやつらさ、無念さ。わかってここにこどもを出してるとはいえ、簡単に割り切れる気持ちじゃない。

 

 それでもここに園生がいる。そのことを、父ちゃんはうんと強く思ってないといけないって、改めて思ったんだ。

 

 仕事してても、おうちの掃除をしていても、きっと心に浪合の園生のことがある。だからまた一生懸命仕事して、おうちのこともして。

 

 今、できることを精いっぱい。お互いのそれが、見えないつながりを太くして、そして家族を、紡いでる。

 

 父ちゃんは、そう思う。

 

平成22年2月 

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2006年3月29日 (水)

僕が通年合宿の仕事をしているわけ⑩最終回

 さて、長いことお付き合いしていただきましたが、これでとりあえず最終回。では。

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 山村留学は、過疎対策事業としてスタートした。しかし始めてみると、これは教育事業なんだと多くの人が気づく。なぜならそこに生活そのものがあり、その生活から体験を通してヒトとしての学びを深めているからだ。生活は大家族的なものであり、また同世代が群れを成す集団でもある。周囲は自然に囲まれ、自然から恵みを得るための森や畑がある。長い間、われわれ日本人はそういった環境で過ごしてきた。それを再現し、そこでのこどもの育ちに大きな可能性を見るのが「山村留学」なのだ。

 一時、山村留学といえば「不登校のこどもたちのアレ?」とか「気の毒なこどもたちがくるアレでしょ?」みたいな言説が多くて本当に悩まされたことがある。いや、そうしたこどもたちを対象とした山村留学を悪いとはいわないし、不要ともいわない。むしろニーズはあるかもしれない。しかし私はそうした限定的な対象者にしぼる事業ではないと思っている。山村留学は、いわゆる「普通」の子どもたちにもっと体験してほしい。

 いや、もっというと、だ。

 学力低下が話題になっているが、学力の向上が普通に見られる山村留学だ。体力の向上はいうまでもない。自慢じゃないが、センターの子でマラソン大会上位を独占する年だってある。3年間で「完走目標」だった子が「優勝」にまで踊り出たことだってある。共同生活におけるモラルへの意識、あるいはモラルの向上も見られる。一年間に及ぶ自然豊かな環境における集団宿泊体験であるからこそ、知力、体力、道徳力が向上している事実は、まだまだひ弱なものではあるものの、十分信用にたる実績だと思う。山村留学の可能性は、まだまだ現状のようなものにとどまるとは思わない。

 また、山村留学があるところには、地域(ムラ・コミュニティ)があり、家庭(センター・里親)がある。山村留学にかかわるすべての人たちの地域へのまなざし、家庭へのまなざしが深くなり、認識を新たにすることもあろう。たとえば、山村留学にこどもを出す家庭は寂しさと引き換えに家庭のなんたるかを改めて知る機会を得るだろう。それは現在、人知れず潜在的なカリキュラムのようなカタチで進行しているが、これは混在化してプログラム化するといいとも考える。

 もちろん山村留学だけが理想というわけではない。親子が家庭の中で肩寄せあって暮らすことに異存はない。いいことだと思う。しかし山村留学を通して見えてきたものは、そうした家庭での子育てにも一石を投じるはずだ。

 山村留学のたくさんの可能性。それが知りたい、見たい、やってみたい。

 これが、そうだな。僕がこの仕事を続けてきた理由、かな。

 とりあえずこのテーマでの作文は今年度でおしまい。後はブログでいろんなことを書いていくので、もしよければ見てください。たとえば「山村留学の指導者の家庭の受難」とか(笑)

(おしまい)

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2006年3月28日 (火)

僕が通年合宿の仕事をしているわけ⑨

昨日の続きです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 それから、もう十二年。塩沢所長は退職され、佐々木所長が就任された。

 通年合宿の園生も、初年度の途中から増員を続け、今ではコンスタントに十四名を集めることができるようになった。たくさんのこどもと出会い、別れてきた。たくさんのスタッフとも出会い、別れてきた。

浪合村は平成の市町村合併の大波にのり、阿智村浪合となった。

 いろんなことがあった。どれもこれも、その時の所長さんと、それからスタッフのみんなと一致団結して乗り越えてきた。それははいつか何らかのカタチで文章にしてきたいと思ってるが、ともあれ開設当初はまだ二十代だった僕も、もうあと何年かで四十歳。不惑を迎える。

 「自分のこどもでも出したくなるような山村留学所をつくる」

これが僕の目標だった。

 幸い、うちのこどもたちはセンターが大好きである。それどころか、「将来は山村留学の相談員になりたい」と兄弟が口をそろえて言う。そこから考えると、私の目標へはヨチヨチ歩きながら着実に近づいているようではある。ほんとかな。

 今まで、つらつらと来し方をふりかえりつつ、この仕事にたどり着いたいきさつを書いてきた。しかしそれは経緯。経緯は理由の一部であってもすべてではない。

 僕が山村留学を仕事にしている理由。

 それは、オルタナティヴな教育の可能性を追うため。それはトータルバランスのとれた子育て方法を模索するため。

 学校はなくなる、と、私は学生時代にあちこち吹聴して歩いていた。それは、言葉は悪いが、つまりは「教育の学校偏重は改められますよ」、という意味だった。実際、その通りに推移していると思う。しかし私の予測とは違うカタチでだが。

 学校は週五日制となり、学校にこどもが拘束される時間は減った。これは明治の学制発布以来実に衝撃的な出来事だ。それに加え、教育内容の精選で学習指導要領が相次いで改変され、教育内容も減った。部活も地域スポーツクラブなどにとってかわられるようになってきた。量、質とも、学校は荷を降ろした。

 しかし、その一方で、こどものいる場所は減少の一途だ。こどもが育つ場所に至ってはさらに厳しい状況といえる。家庭も地域もその教育力を低下させっぱなしだし、ついぞ母親が我が子を殺してしまう事例も散見するようになってしまった。いわずもがなのことだが、食料難の時代における「間引き」とは訳が違う。地域が瓦解し、家庭が崩壊し、母親業までもが再生産されなくなったが故の悲しい事件だ。

 学校はその荷を次々降ろし始めたのに、でもその荷をかわりに持ち上げるところがない。学校の荷物は減ったものの他の荷物が野ざらしのままなら、相対的に学校偏重である実態は変わっていない。これではこどもが育つわけがない。

 学校はもっとシンプルに、学習トレーニングをするところ、として特化されていくべきだと思う。しかし学校以外の教育力が機能していないと、本来学校の領分でない事柄に関してまで学校がしなければならなくなる。それがたとえば、平成における総合的学習の時間だ、というのは言いすぎか。

つづく

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2006年3月27日 (月)

僕が山村留学の仕事をしているわけ⑧~ラストシリーズⅰ~

 えー。別に日々の様子を書くことのわずらわしさから逃れようとしているわけではありませんが・・・。「僕サン」シリーズ(←自分で略称つくるのも恥ずかしいですネ)最終章を今日から3日間アップしていきます。前回の続きです。

・・・・・・ここから・・・・・・

 僕は幾度も、浪合村役場に当時の上司と打ち合わせに行った。その席上で、「吉田くんを、山村留学(通年合宿)の指導者に、ぜひ」という言葉を、幾度も村担当者(当時の教育長さん)から聞かされた。上司はそれをやんわりとかわしながら、通年センター設立に向けてのあれこれを進めた。もちろん僕もだ。

 ただ、僕はこの仕事をやることになるだろうな、と腹をくくっていた。財団の経営も厳しい状態が続いている。

 浪合村に私が行くことで、人件費はだいぶ助かるはずだ。事業を展開していく上で僕という戦力が減ることは痛手に違いないが、しかし事業ができなくなるほどじゃない。僕なんかリストラしちゃった方が、財団がこの急場を生き延びる可能性は高くなる。

 他にも理由はある。財団がメインに使用しているキャンプ場は、浪合村にある。そればかりか、建設中の通年センターのすぐ下だ。年間を通しての管理がなかなかできないところが課題だったキャンプ場だが、僕が通年合宿に赴任すれば、その問題も解決への道筋がつこうというものだ。

 僕が「浪合に行きます」と言ったか、上司が言い出したか、実ははっきりと覚えていない。しかし、それは熟した実が自然に落ちるように、すんなり決まった。

 また上司も通年合宿設立後の運営に参画することになった。業務インストラクターという位置づけである。週のうち1回宿直をしながらスーパーバイズを僕たちに対して行い、そのことを通して通年合宿(山村留学)の決定版をつくろう、ということである。

 つまり財団あげての応援体制を敷いた、ということになる。

 僕は「出向」ということで浪合通年合宿センターの職員となった。給料は、財団から半分、センターから半分ということになった。

 こどもの募集は、当初は教育委員会が行っていたが、直前には財団で行うようになった。キャンプ参加者に呼びかけ、希望を募るというやり方だ。しかしいかんせん、急だった。組織はできたてほやほや、施設にいたってはまだできあがってもいないのだ。実績は当然のごとくゼロ。広報に魅力となる点はない。

 しかしそれだと参加者が集まるはずもないので、参加費はなるべく安く抑えることを心がけた。これは以後長きにわたって奏功する。参加費に関し、高いところは当センターの倍以上(十万円)というところも当時あった。いくらか参加者はいたようだが、しかし長くは続かなかった。高額の参加費がネックになり、参加者の確保が困難になったからであろう。純民間は参加費収入がすべてなので、他に収入があがる部門を持たないと山村留学経営は難しくなる。

 もとい。ドタバタしながらではあったが、当時の塩沢和光教育長の情熱は猛烈なものがあり、平成六年二月に浪合通年合宿センターの開所式が行われた。施設はまだ完成していない。年度内に完成する見込みもなかった。開所式はトンキラ農園上にある「おいで家」で行われた。村長さん以下、助役さん、収入役さん、各課長さん、議員のみなさん、教育委員のみなさん、校長先生、教頭先生。あの小さな建物に、たくさんの人が集まってくれた。そして、大きな拍手で迎えてくれた。

「よろしく頼むな」

今でも、期待いっぱいの村の皆さんの顔を思い出すことができる。僕は正直、意気に感じてしまうかわいいところがあったので、本当に感激してしまった。

 すでにその頃に参加者を四人獲得していた。四人全員女子である。スタッフは私ともうひとり、きんぎょが「一学期の間だけなら」という条件で手伝ってくれることが決まっていた。この二名に業務インストラクターとして財団理事長。全三人だ。所長はS氏が村教育長兼務でつとめてくださることになった。

(続く)

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2006年2月26日 (日)

僕が通年合宿の仕事をしているわけ⑦~しばしおわかれ~

その⑥の続きです。

 
 キャンプ前の激務が続いた。
 給料の不安は、この頃にはなくなっていた。夏前のこの時期には参加費を次々振り込んでくれており、なんとか給料が出るようにはなっていた。が、しかしキャンプの参加者数は伸びなかった。毎日ポストを見ては、首をかしげる日が続いた。
 しかし、である。このシーズンの現場、つまり夏キャンプそのものはたいへん印象的だった。いいキャンプができたと思っている。理由は簡単、参加者が少なかったからだ。
 大人のスタッフひとりあたりのこどもの数が少なければ、それだけコミュニケーションがとりやすく、指導もしやすく、活動もこわまりが効く。自然、キャンプの評価も高くなるというわけである。プロとしては大人数キャンプで高い評価を得るというところが本望であるかもしれないが、僕はこの時、少人数キャンプのよさを改めて実感した。だが、少人数の参加者でキャンプ団体が運営し続けることができるかというと、そんなことはない。厳しいところである。
 ともあれ、私は現場に没頭した。幸せだった。
 
 夏が終わった。秋の風が心地よくなった。
 そんな時、うちの団体で新たな仕事に本格的に取り組むことになった。

「浪合村に通年合宿を設置する」

このことである。

 当時の職場にしてみれば、三つ目の通年合宿設置の仕事である。一つ目は泰阜村。これは直接運営の形で設置した。二つ目は松川町生田地区である。これは地区住民の熱意に動かされ、新組織を立ち上げるという形であった。今回は村そのものからの依頼である。
 浪合村はそれまでも山村留学事業を行っていた。(財)育てる会という団体がその事業主体となっていた。実に8年間行っていたのである。しかし育てる会が何らかの事情で撤退していった。その事情については、僕は今だに多くを知らない。しかし村としては山村留学事業の必要性は高まっており、なんとか再開したい。そこで白羽の矢があたったのが、通年合宿事業のソフトを持つ当方とだったというわけである。また私達が行っていた短期キャンプのメインフィールドも浪合村にあった。村との縁は、薄くはなかったのだ。
 当時の村の熱意も、相当なものがあった。担当の方が連日事務所にやってこられては、理事長と長い時間懇談されていた。経営事情がよくない時期だったから、どんな仕事であれありがたいことに違いはない。しかし、通年合宿の設置は、当時の職場のような零細団体には大事業である。なにしろ、人がひとりの派遣は絶対に必要なのだ。そしてそれは、その当時の状況からすると僕以外にはありえない。しかし、事務所にもう大久保はいない。僕の仕事の守備範囲も広くなっている。二足のわらじを履こうにも、さすがにムリがあった。
 しかしそれでも、浪合村は通年合宿設置を熱望している。通年合宿を行うための村の施設の建設も進んでいた。
(つづく)(ここまで平成16年度文集掲載分)

・・・・そして今年度の文集掲載分に続きます。これは今執筆中です。

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2006年2月25日 (土)

僕が通年合宿の仕事をしているわけ⑥

その⑤の続きです。




 6月に結婚式をあげた。
 新婚旅行をかねて四国へ行き、香川県高松市の結婚式場に併設されている小さな教会で式をおこなった。ふたりだけの結婚式、と洒落てみたのだ。四国にはそれまで行ったことがなかったが、なんとなく気になるところだった。祖母が幾度か四国に旅行に行っていて、その土産話をうらやましく聞いていた覚えがあるが、もしかすると四国が気になる理由はそんなところにあるのかもしれない。ふたりだけの結婚式というのは、別に積極的な理由じゃなかった。仰々しいことが好きじゃなかっただけだ。
 四国でふたりだけの結婚式・・・。なんだかヘンな組み合わせである。
 ヘンな組み合わせは意外な展開を呼んだ。
 神父さんは外人さんだった。雰囲気のあるひげを顎にたくわえ、いかにもそれらしい。こりゃいいぞ、なんて思ったものだ。おごそかな式場で、青い目の神父さん。入場してきた私たちを愛情深い瞳でひと時見つめ、一言。
「ほなはじめまひょか」
思わず吹いてしまった。あまりに見事な関西弁だ。クレームのつけようがないアクセントと抑揚だった。妻は式の間中、ずっと鼻水が出たままだった。もちろん神父の関西弁に吹き出してしまった痕跡である。
 また「ふたりだけの結婚式」はこのあたりではめずらしかったらしく、式場の掃除係のおじさん、おばさんから営業や裏方のスタッフの方まで列席してくださり、
「大丈夫、幸せになれるって」
などと涙を浮かべながら声をかけてくれた。どうやら私達はあまり幸せそうには見えなかったらしい。営業の方は式の様子の一切を使い捨てカメラで撮影してくださり、
「これ、どうぞ」
とプレゼントしてくださった。貸衣装代なんて、なんと規定料金の一割だ。一割引ではない、一割である。びっくり価格だ。それなりの現金を握っていた私たちだが、当然のこと
「恐れ入ります。助かります」
なんていってそのチャンスを素早くゲットしたことは言うまでもない。

 高松から高知へ移動し、桂浜まで足を伸ばした。学生時代、司馬遼太郎氏の「竜馬がゆく」を読んで、またこの頃連載していた小山ゆう氏の漫画作品「お~い竜馬」を読んで、どうしてもこの桂浜に来たかったのだ。
 桂浜に坂本竜馬記念館という施設があり、そこには竜馬の足跡を日本地図にあらわす装置があった。竜馬の生涯を数分程度に短縮し、竜馬が活躍した場所をその期間に相当する時間だけ発光させるという仕組みである。竜馬は若くして暗殺されるわけだが、その死を迎える直前の数年は、まさに東奔西走、縦横無尽に動いている。そのことがこの装置で視覚的に、直感的に伝わってきた。
 人が動くと書いて、働く、である。まさにそうだと納得した。
 竜馬に触れた多くの若者がそうでなるように、僕も竜馬のように生きたいと思った。郷士の身分でありながら、果ては浪人になっても大きな夢を描き続け、否、夢を見るために浪人となり、大きな仕事をした竜馬。そんな生き方に、あこがれた。
 桂浜では、用意してきたコップ酒をあおって海を眺めた。
「海はでかいのう」
文字でし知らない土佐弁が口をついた。
 その夜、皿鉢料理を食べた。びっくりだ。二人前だなんて思えない。その上それに八寸はもちろん茶碗蒸しだの天ぷらだのがつく。豪快なものだ。二人で遮二無二舌鼓を打った。まさに料理と格闘したのである。断言してもいいが、あれは4人前だ。

 新婚旅行から帰ったら、すぐに7月だ。短期キャンプのシーズン開幕は、もうすぐそこである。つかの間の結婚式付新婚旅行が終わると、正真正銘の戦場が私を待っていた。
(つづく)

あと一回で今までの掲載分はおわります。ごめんね。

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2006年2月24日 (金)

僕が通年合宿の仕事をしているわけ⑤

3日ぶりの連載(?)です。その④の続きです。


 僕は松川町の通年合宿の現場を去った。短期キャンプの仕事に専念するようになった。松川の現場には門野(旧姓・星)も池延(前号に登場した、もうひとりのスタッフ)も残ってくれていたので、不安はなかった。しかし、短期の仕事の方は、難しい局面を迎えていた。バブル崩壊の影響で、キャンプの参加者減が著しくなっていたのだ。
 右肩下がりの業績は、キャンプが主な収入源である僕の職場においては大打撃である。給料の未払いも発生していた。昇給してもらったものの、しかし未払いではいいことなんてない。
 結婚式を6月に控え、切り詰める日々が続いた。

 当時の職場では毎年年度初めに関東方面と中京方面の役所・図書館などにキャンプ広報の営業に出た。中京方面は1,2日で一気に回ってしまうのだが、関東方面はそうはいかない。1週間は必要だった。経費削減で新宿のカプセルホテルを連日利用し、カルキ臭い風呂に入って汗を流し、マクドナルドや駅そばで腹をみたして歩き回った。結婚式はまじかに迫っていたしお金もなかったが、しかし夜は東京ドームや神宮球場に通った。安い外野席のチケットを買い、すきっ腹をだましつつ、ゲーム観戦に没頭した。
 ドームのなんだか不自然な明るさは野球とは縁遠い感じがしてあまり好きになれなかったが、天候に左右されず野球観戦ができるという点だけはありがたかった。しかしその点、神宮球場はいい。やはり野球は、野外スポーツだ。風がふき、雨がふり、デーゲームでは太陽がふりそそぎ、夕方ともなれば西日がさす。それが野球の重要な要素で、それがない野球などなんだかテレビゲームみたいで、なんだかごっこ遊びみたいで、「野球」と呼ぶには抵抗すら感じる。

 閑話休題。

 この年だったか。読売ジャイアンツ対中日ドラゴンズというカードを、東京ドームで観戦した。ゲームは白熱、延長戦に突入した。
 僕が贔屓にしていた選手に、落合博満という男がいる。彼はこの年ジャイアンツのユニフォームを着ていた。私はジャイアンツファンではなかったが、落合がいた3年間だけジャイアンツファンだった。この日も落合見たさにドーム球場に行ったようなものだ。
 落合はこのゲームでは右前にヒットを放っていた。延長のこの場面、打順はクリーンアップにまわってくる。僕は落合がサヨナラ安打を放つことを期待した。しかしそれは叶わなかった。主砲落合の前を打つ3番松井秀喜が、ライトスタンドで観戦していた僕の頭上をはるかに越す見事なサヨナラ大ホームランをかましたからだ。度肝を抜かれた一発だった。ものすごい打球のスピードだ。これはスタジアムで観戦しないとわからない。僕は落合が得意の右打ちで放り込む打撃を堪能したくてライトスタンドに座っていたのだが、おかげで松井のこの一撃を最も迫力ある場所で見ることができた。しかし、ドームのおかげで場外ホームランを見られなかった、ということについての不満は拭い去れず今もある。ともあれこの一撃以降、私は松井を注目し続けている。
 野球はいい。一瞬の残酷さと恍惚感は、他のスポーツにない魅力である。・・そんなことを思いながら、空腹のままカプセルホテルに向かった。
 僕の独身最後の春は、こんな調子だった。
(つづく)

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2006年2月21日 (火)

僕が通年合宿の仕事をしているわけ④

③の続きです。

・・・ここまで来て気がついたのですが、①、②は「です、ます調」で、③以降は「だ、である調」になっちゃってます。ごめんなさい。



 小学校の衰退は地区の衰退を強くイメージさせる。町としても、町に3つある小学校の中で、生田の学校ばかり優遇するわけにもいかない。そこで地区民が立ち上がり、「おらが通年合宿」をつくって児童増に向け立ち上がったわけだ。
 うちの団体はソフト提供と人材提供をすることになった。しかし小さい団体にはすぐに提供できる人材がいない。人選に入ろうとも、その人が不足しているのだ。まわりを見渡しても、身軽に移動できるのは僕と大久保くらいだつた。そして現場指導経験は僕に分があり、志向に関して
も僕の方が強かった。僕はすぐにも立候補したかったが、しかしここには僕がいなければ滞る仕事もたくさんある。躊躇した。したが、しかし決めた。
「ふたつとも、やる」
これだ。
「そう来ると思ったよ」
大久保が言った。
「そういうやつだよな」
僕は何も取り得がないが、しかし人より運動量、というか仕事量が多かった。
器用にできないからその分人より多く動こう、働こう、これが当時の(一応今も)僕の信条のひとつだった。大久保はそんな僕のことを知っていた。
「おまえがやれない分はオレがフォローしてやるよ」
大久保が憎らしいほどさらりといった。
僕は希望を理事長に申し出た。理事長は翌日、僕の職員昇格と1年の出向を発表、僕の任務は松川通年合宿所所長として合宿所の設立し、その事業を軌道にのせ、新所長を発掘してパトンタッチすること」だった。僕の通年合宿のキャリアはこの時スタートした。

 とにかく、お金がない。町はこの事業に関してまったくお金は出さない。またうちの団体も補助金をもらって事業を興すことを潔しとはしていなかった。幸い、地区住民は通年合宿を誘致してくれただけあって、とても協力的だった。合宿が行える古家を捜し、参加者募集を行い、スタツフを募り、役場や学校へ幾度と無く出かけ、近所に挨拶回りをし、事業計画をたて、予算をたて、保険に加入し・・・やることはいくらでもあった。
 キャンプの仕事のノウハウがかなり生きた。でも、当時私は24才。もちろん独身である。はっきり言って、まだこども。周囲の好意と協力なしに、これらのことはできなかったと断言していい。「ありがとうごぎいました」という言葉が、本当に心の底からいえるようになった。
 オープンぎりぎりまでスタッフが決まらなかったが、3月に入って門野(旧姓星=きんぎょ)を得ることができた。もうひとり男性スタッフがいて、私と合わせて相談員は3人。こどもは6人集まった。補助金も何もないので、当然人件費も充分にはない。3人のうちひとりを住み込み研修生とさせてもらった。
 僕の身分は出向なので、給料は出向元からもらった。
 通年合宿がスタートすると、生田から飯田市山本まで通う日がはじまった。2足の草鞋はいやではなかったが、往復2時間半の通勤時間には閉口した。1日24時間が長時間通勤することによって21時間30分になってしまうのだ。
 はじめての通年合宿はいろんなことがあったが、キャンプの仕事を終えて合宿所にもどると大好きな現場がそこにあるっていうのはわりと良かった。
 ハタから見ると四六時中仕事していて大変だ、って感じがしたかもしれないが、僕はそうでもなかった。畑を耕し、ヤギを飼い、犬や猫と戯れ、薪で風呂をたき、山菜を探す・・・そこに都会っ子がいっしよにいて、目を輝かせて・・・ばかりじゃないが、しかし自然の中でみんなと暮らすってことは本当に楽しかった。家庭訪問の折り、松川中学校の某先生が、
「これこそ本当の教育の姿かもしれないなあ」
とおっしゃってくださつたことが印象的だった。

 大久保は短期の仕事を本当によくサポートしてくれ、合宿所のスタッフは献身的に通年合宿の日常を支えてくれていた。ずいぶんと迷惑をかけてしまったものだ。また僕の休日は、大げさではなく月に1日程度だったのではないか。勤務カレンダーでは休日でも、キヤンプの事務所か合宿所に顔を出すのは日常茶飯事だった。仕事に打ち込むとはそういうことだと、僕は思い定めていた。それは僕だけではなく、大久保も他の仲間も同じだった。
 たまに飲む大久保との酒がうまかった。うまかったなあ。

 疾風怒濤の1年がすぎようとしていた頃、僕は結婚する決意をした。25才の春だ。
 早いが、その方が僕にとってはいいと思った。嫁さんになってくれる人は生田の人だった。もっとも出会ったのは学生時代で、しかも浪合がその場所だった。思えば不思議な縁である。
 僕には本当に不似合いな、(当時は)かわいい嫁さんだった。菜の花が咲く頃、僕の任務は概ね完了の見通しが立った。次の所長も見つかり、引き継ぎを終え、4月から僕は飯田の事務所に戻った。清内路村の村営住宅で新婚生活が始まった。大久保はデザイナーになるため事務所を去った。再びふたりで仕事をするようになるのは、まだ少し先のことだった。
(つづく)(ここまで、平成15年度文集掲載分)

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2006年2月20日 (月)

僕が通年合宿の仕事をしているわけ③

その②の続きです。



 大学を卒業して野外教育団体に研究員としてひろわれた僕は、飯田にやってきた。すまいは清内路村で、村営住宅をお借りしてくらした。研究員という肩書きだが、やつている内容はむしろ「研修生」といった方がよく、オン・ジョブ・トレーニングののりで、短期自然体験キャンプの企画・管理・運営のお手伝いが主だった。研究といえば、キヤンプの評価アンケートの改良と、
今までのキャンプの事例のまとめをやったくらいである。
 同期に、
大久保というおもしろい男がいて、この男と酒を飲むことがこの頃の無上の楽しみだった。大久保は千葉県出身の男で、とにかく愉快な奴だ。彼は切れ時鋭い頭脳とデザイナーとしての優秀な才能を持っていた。彼はその後デザイン会社を興すのだが、それはまあ、別のお話。

 事務所での仕事は朝8時30分から。夕方6時から2時間程度、糊口をしのぐために塾の講師をやり、9時からまた事務所に戻って仕事した。帰りはたいてい年前様。それから僕の家か大久保の家で一杯やって、そして眠る。そんな毎日だった。
 キャンプのパンフレットづくりや会員向けの新聞を作る仕事はとりわけ楽しかった。大久保とのコンビが小気味よかった。おおざっぱだけど早い僕の仕事と、時間はかかるけど緻密な彼の仕事。文章もイラストもその特性がはっきり出た。違いがあるから組む意味があることをこの時知った。
 大久保は飯田のデザイン会社のアルバイトもしており、彼がデザインした焼き肉屋の看板は、
しばらくアップルロードの中心付近に立っていた。
 パソコンの操作を覚えたのもそのころだ。ウインドウズなんて便利なものはまだウチの事務所には導入されておらず、キヤンプの班分けやアンケート集計も、自分でプログラムを組んでやっていた。視力を落としたね。体重も増えたぞ。ちぇ。

 それらの仕事はおもしろかつたしやりがいもあつた。しかし、事務仕事が多かった。それは仕方のないことなのだが、事務仕事ばかりやりにきたんじゃないぞ、という逮和感が、少しずつ僕の胸に広がっていったのも事実だった。
 僕は、こどもといっしょにいる現場が、とにかく好きなのだ。
 僕の企画したキャンプで、気球を空にとばそうというものがあった。春、GW、夏の3つのキャンプでプロセスを構成し、目的を達成しようというキャンプで、キャンプを構成するメンバーは大人もこどもも固定されている。気球のモデルづくりから実験を繰りかえし、だんだん大きな気球をつくって、最終的には3年生のこどもを宙に浮かそうというプラン。
 みんな夢中になった。大人もこどもも一生懸命だった。だから、遊ぶ時も集中して遊び、寝る
時も集中して眠った。最終日の朝、気球が大きく膨らみ、パイロットのこどもが宙に浮遊する瞬間を見ようとみんながそれぞれの持ち場で必死に働いたが、しかしその夢は叶わなかった。身代わりに、もう少し軽い人形を気球につけた所、気球はふわりと浮き始めた。間違いなく、空に昇ってゆく。少ししてから安全紐を引き、ゆっくりと地面におろす。おだやかに着地する人形。はじける歓声。あちこちで握手がかわされる。
「くず、来年もやろうよ、僕、また来るからさ」
僕の服の裾を掴んで、パイロツトの少年がいう。彼は、飛びたかったのだ。
 後から聞いた話だが、その少年は少しでも身軽になるようにと、前日の夕食はほとんど食べなかったらしい。悪いことをした、なんで気づかなかったんだろうと僕は後悔した。
 こんな感じの現場が、僕は大好きだったのだ。
しかし、現場をつくるためには裏方がいる。キャンプはその準備と総括が重要で、現場はその間にはさまれた夢のような時間、という言い方もできる。
 準備に費やす時間が圧倒的に長い。およそ2ヶ月の現場シーズンのために10ヶ月を要するのだ。これがオレの生きる道だし、と覚悟を決め、受け入れようとした時、ひとつの話が舞い込んだ。

「松川町生田(いくた)地区で通年合宿をやりたがっている。その事業を担当できる人間が欲しいので、その面倒をみてくれ」
という話だ。

 僕がいた団体は通年合宿のソフトを持っていた。また、泰阜村で既にひとつの通年合宿事業を展開しており、僕もかなり強い関心を寄せていた。団体の先輩がそこで担当者をしており、こどもと暮らす中で、定住型の自然体験と共同生活体験を試行錯誤しながら展開していた。学校教育と、家庭教育、それから社会教育を融合させたカタチの取り組みだ。イギリスのパブリツクスクールを連想させる事業だと当時の私は思った。
 松川町生田は過疎地域である。松川町自体は大きな町だが、生田地区は当時でも小学校が全部で50人程度。複式学級の誕生は目の前だった。中学は地区にはなく、町にひとつあるだけである。
(つづく)

 関係ありませんが!
 松井大輔選手がフランスのリーグ・アン(一部リーグ)で月間MVP獲得!うれしいじゃないですか。トリノオリンピックで苦戦が続く中、サッカーは好調。先日の国際親善試合、日本対フィンランドも、左サイドの村井の活躍は目覚しかったし、久保の動きもよかった!(今期J1開幕戦で我がサンガはマリノスとあたっちゃいますが・・・) 佐藤寿人と右サイド駒野のコンビもよかったし、なんといっても小笠原のおよそ60メートルのループシュート!!ジーコも「ペレ、マラドーナクラスのシュートだ」と絶賛してました。スゴイ!
 でもやっぱ松井大輔がスゴイ(笑) 

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2006年2月19日 (日)

僕が通年合宿の仕事をしているわけ②

①の続きです。



 大学でも山登りをしようとしたのですが、資金集めのアルバイトのつもりではじめた野外教育キャンプのリーダー体験が、人生の転機になりました。きちんとした理念を持つ野外教育キャンプの魅力に捉われたのはもちろんですが、すばらしいポテンシャルを持ったキャンプリーダー仲間との交流が実に刺激的でした。僕は大学にいるよりも、キャンプの準備、実施、始末といったあれこれを、そんな仲間たちとあいまみえながらできる現場を愛してしまったのです。キャンプの主なフィールドは、浪合村でした。またこの頃苦労しながら読んだI・イリイチミシェル・フーコーF.アリエスといった人々の著作に触れてしまったことも、当時の自分のあり方に大きな影響を与えているような気がします。

 松本市や長野市から飯田や浪合に通うのは容易ではありませんでした。当然お金もありません。だからヒッチハイクなんてものも覚えました。僕を乗せてくれたトラックの運ちゃんが、僕が教育学部の学生だと知ると、思春期を迎えた娘を持つ親の悩みを打ち明けてくれました。トンネル掘り職人さんはとにかく無口で、それでいてクルマは猛烈なスピードでした。別れ際、「気をつけろよ」といってくれたのですが、無口な人だっただけにその言葉はずしんと胸に響きました。金ぴかの車のオーナーだった和尚さんは「無茶が何かわからんようになる時だ。親を泣かすな」といって小遣いをくれました。飯田からの帰りに乗せてくれた小荷物輸送の運ちゃんは、最初は「塩尻までだぞ」といっっていたのだが、話がはずんじゃって「よっしゃ、松本までまわったる。そのかわり学校の試験がんばれよ」なんていってくれました。分けてくれた梅干しのおにぎりがおいしかったことを思い出します。

 大学の4年間はたちまちのうちに過ぎていきました。親には先ほどの和尚さんには申し訳ないけど、心配をかけなかったとはいえません。むしろ、たくさんの心配をかけたのではないかと思います。教師になるはずの息子が、キャンプ屋の修行みたいなことをやっているののです。その上、たまに会うと学校教育は今後確実に変わって行くし野外教育の重要性も増していくに違いない、なんて演説をしちゃうのです。呆然ともさせたでしょう。ゴメンナサイ。
 教員になろうとチャレンジはしました。京都に帰ろうとは思わなかったので、長野で受けました。これは失敗しました。そこで僕は民間の野外教育財団の研究生に応募し、拾っていただきました。研究生とはいっても、実質は丁稚のようなものです。収入もほとんどありません。塾の先生をして糊口をしのぎました。1日中、仕事していたような気がします。
(つづく)(平成14年度文集掲載分)

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