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2009年2月20日 (金)

異人の球譜2・西鉄ライオンズの魔術師(3)

西鉄ライオンズの黄金期の強さは、たわむれに「実存主義の強さ」と呼ばれる。組織云々といった考え方ではなく、個々のプレイヤーの実力と技術のぶつかりあいが勝負であり、勝敗の行方を決める要素だというわけである。だとするならば、個の力・技術の高い者を集めたチームが強いということになるが、しかし優れた者が優れたパフォーマンスをいつも発揮できるとは限らない。そこが難しいところなのである。
 三原は「選手の力が十二分に発揮できさえすれば、ゲームに勝てる」ということに神経を集中し、そのことを現実化するためにのみ頭脳を使った。
 三原は同リーグのライバルチーム「南海ホークス」の鶴岡一人監督には一目置いていた。人情家でならした鶴岡監督は見事に選手の人心を掌握し、それを組織プレイに反映させ、攻守ともに華麗な野球を展開した。三原はそんな鶴岡の野球を「求心力野球」と命名した。
 これに対し、自分の求める野球は「遠心力野球」だとした。「管理や規則で縛るのではなく、個性を活かして無軌道なまでに選手のエネルギーを発揮させる野球がやりたい」というのである。あっぱれな開き直りだと言うべきか。「無軌道」でよいというのだ。結果が出なければチーム崩壊の戦犯とされよう。大きな博打である。しかし三原には勝機が見えていたのだろう。いや稀代のモチベーターたる自分ならできる、と冷静に計算していたか。

 ライオンズが超個性派チームとなって破竹の進軍をしたのは、三原が己とチームの土壌や体質を理解し、「遠心力野球」をぶちあげ、とにかくチームを構成する選手の力を爆発させることに腐心し工夫を重ねたからだろう。

 たとえば、三原の教育方針は
「気付かせる」
ことに徹した。その上で、
「自発的にやらせる」
ようにした。饒舌な野球理論など言うもおろか、答えは選手の中にある、というわけだ。
 そうした姿勢はコーチや選手にも敏感に伝わった。コーチは指導のタイミングとポイント(学習心理学でいうところの「臨界期」(=レディネス))をわきまえ、「教えすぎない」ことに特に注意を払ったという。選手はグランドで、宿舎で、遠征先で、互いに競い合い、盗みあい、教えあい、学びあい、そして磨きあった。

 三原は変幻自在な采配で相手を幻惑したが、一本筋の通った戦術も持っていた。それが「流線型打線」である。この打線の特徴は、2番打者に小技が効く選手を配置するのではなく、長打力のある選手を配置するところにある。空航力学にヒントを得て三原自身が開発したのは彼がジャイアンツの采配をふるっていた時のことである。3,4番で長打力を上げるより、2番から上げていった方が得点能力がアップするはずだ、というのがこの打線の考え方である。ジャイアンツ時代には「猛牛」のニックネームで愛された右打ちのスラッガー千葉茂を2番に置いたし、ライオンズ時代にはチャンスに滅法強く長打力もある豊田を2番に据えた。そして3番怪童中西、4番天才大下と続く。
 彼らが生き生きと自分の能力を発揮すれば、強くないはずがない。そしてマウンドには抜群のコントロールと脅威のスタミナを秘めた鉄腕・稲尾和久が球史に残るエースっぷりを見せ付ける。(しかしこの稀有な才能が、以後長らく、日本におけるエース酷使の誤った常識を作り出してしまったことは否めない。)

 そして1959年。この年から三原率いる西鉄ライオンズは、好敵手水原率いるジャイアンツと三度にわたって日本一を争うことになる。ニアミスを繰り返してきた二つの巨星が、いよいよ激突する。

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