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2009年1月30日 (金)

異人の球譜2 西鉄ライオンズの魔術師・上

 西鉄ライオンズの黄金時代は長くない。1956年から59年までの3シーズンだ。ライオンズはこの間、3度続けて日本一に輝いている。だが記録を紐解いてみると、圧倒的に強かったわけではない。かといって抜け目のない試合巧者だったかといえばそうでもない。しかし、破天荒でドラマチックなチームだったということは言えそうだ。

 西鉄ライオンズの時代は、まだ「戦後」だった。ズタズタになった日本がなんとか息を吹き返そうと懸命にもがいている時代だった。
 ライオンズの親会社である西鉄は、北九州で炭鉱夫を運ぶ私鉄会社だった。政治的にも経済的にも文化的にも中央から遠く離れたこの地の炭鉱夫たちは、もともとその地に息づいてきた伝統的性分もあって、あらくれであり反骨であった。そういう風土で結成された西鉄ライオンズは、当然無頼で荒々しいチームだった。
 だが、無頼であることはともかく、荒々しいチームが3年も続けて日本一にはなれない。事実、三原脩という稀代のモチベーターであり魔術師が来る直前までのライオンズは、選手の数は多くても皆一軍半程度の実力で、とても上位に食い込めるチームとはいえなかった。

「九州に日本一のチームを」
時のオーナーの意向を受けて、三原脩が博多に乗り込んできたのは1951年のことだった。

 三原脩は早稲田大学の出身である。戦前はプレイヤーとして、戦後は監督として、あの読売巨人軍に所属し、特に1949年には巨人を戦後初の優勝に導いた経歴を持つ。また余談であるが、三原はこの時代に学生結婚をしている。奔放にして断固とした行動力を持つ、そんな人物像が浮かび上がる。
 だからというべきか、彼は読売巨人軍にあっては扱いづらい人物だったようだ。その証拠に優勝した翌年、彼は「総監督」なる名誉職に祭り上げられてしまう。かわりに監督の座についたのは、前年シベリアから帰還した水原茂だった。ふたりは同じ香川県出身で、学生時代から好敵手だった。慶応大学の投手だった水原とは好勝負を繰り返し、中でも1931年春の早慶戦2回戦で投手・水原の時に三原が行ったホームスチールは、早慶戦の歴史の中でも伝説的な出来事として語り継がれている。
 奇襲・奇策の三原に対し、何をやるにもスマートでそつのない水原は好対称をなしていた。その好敵手が何か大きな成果をあげたというならまだしも、ただ「帰ってきたから」という理由だけで監督の座を追われた三原の悔しさは想像して余りある。しかも球団からはろくに仕事をあたえられず、日がな碁を打ってすごすかなかったというのだ。
 好敵手に現場を追われた三原は、その力をふるう場を失ってしまった。しかし、チャンスは再び、めぐってくる。

 西鉄ライオンズが、三原を買ったのだ。
 東京を、読売を去る三原に対して、「忘恩の徒」という非難が、他ならぬ読売の中から出たが、三原は
「言われている意味がわからない。きっと一生わからないだろう」
といって取り合わなかった。また三原は同じ時期、別件に対してだが次のようなコメントを発表している。
「読売はきらいです。読売のこうした(傲慢な)風潮が巨人の中に浸透していけば、巨人は必ず飽きられる時期がくるでしょう。」
 それから半世紀が過ぎたが、読売の傲慢は日本プロ野球の傲慢となり、日本のプロ野球はそれと知らないうちに魅力を失って迷走を続けている。

 三原は。三原は博多に向かった。荒くれ集団の西鉄に、稀代の魔術師が来た。当代きっての頭脳がきたのだ。効果はてきめんに出る。下位低迷を続けていたライオンズだが、その年(1951年)一気に2位に浮上している。一方の水原は読売ジャイアンツを率いて1年目の1950年は3位に終わったが、1951年から3年続けてリーグ制覇、日本一に輝く。その間、三原率いるライオンズは1952年は3位、1953年は4位と順位を下げてしまうが、1954年には念願のリーグ制覇を果たす。しかし一方の水原ジャイアンツはそのシーズン2位。

 ふたつの巨星は激突の予感を過熱させながら、しかしその軌跡はまだ交わらなかった。

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