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2006年2月18日 (土)

僕が山村留学の仕事をしているわけ①

え~。
 毎年この時期、センターでは記念文集をつくっています。今年のメンバー(こども、スタッフ、保護者)の作文で構成される文集です。
 私はここに、「僕が通年合宿の仕事をしているわけ」という連載をしています。
 しかし、連載だと困ることがあります。
 そうです。その年限りで家に帰ってしまうこどもたちやその保護者は、その年の掲載文しか読めないのです(笑) 
 別に読みものとしてオモシロイわけでもないと思いますが、しかし「今までのが気になる」とか「どうなったか知りたい」という声も(少しですが)あります。
 なので、ここしばらくの日記は、今までに掲載した分を、さらに分割してアップしていきたいと思います。
 以下の文章は、園生に語りかけるつもりで書いたものです。一人称が「僕」なのは、この連載を始めたときの私の一人称がそれだったからです。
 それと、「通年合宿」とありますが、これは「山村留学」「国内留学」などに置き換えてもらってもかまいません。ここが浪合通年合宿センターだから、「通年合宿」としているだけです。ただし、この言葉には「里親制」の山村留学の意味は含んでいません。
 興味ない人は読み飛ばしてください。
 では。
・・・・・・・・・・・・ここから・・・・・・・・・・・・・・・・

 僕が通年合宿の仕事をしているわけをお話しましょう。
 僕は最初から通年合宿の仕事がしたくて大人になったわけではありません。だいたい、通年合宿なんてものがあることも知らなかった。
 僕の父は技術屋さん。どうやら息子には技術屋になってほしかったみたいですが、あまり親の願いをいう人ではありませんでした。母はというと、自分の夢である教師になってほしかったようです。
 母は兄弟がなく幼い頃に父を亡くし、病気がちの母(つまり祖母)に一生懸命育て上げられた人です。勉強はそれなりにできたようですが、とても大学に行ける余裕などなく、高校卒業と同時に働き始めます。だから、やりたいことができなかったうらみのようなものが、母にはずっとありました。そんな母の夢が、教師なのです。
 僕は小さい頃から、母の期待を感じていました。僕には兄と弟がいるのですが、母の夢は主に僕に注がれていたのではないでしょうか。それがなぜかはわかりません。もしかすると勘違いかもしれませんが、僕が教育学部を選んだ時、また受験に成功した時、母の喜びはとても大きかったように思います。
 でも子どもの頃の僕は、そんな母の思いには頓着していませんでした。今でも自分が何になりたかったか覚えていますが、まず小学校の低学年の頃はパイロットでした。理由はてんで覚えていません。クラスの仲良しがパイロットを目指していたとか、そんなところだったのではないでしょうか。高学年になると、小説家になりたいと思うようになりました。その頃の僕はよく本を読んでいました。読書家の兄の影響なのですが、とにかく読みました。ジャンルは問いませんでしたが、当時一番読んだのは北杜夫氏、星新一氏。田辺聖子氏とか筒井康隆氏の作品も読んだかな。学校の図書館の本にはほとんど見向きせず、安い文庫本を小遣いで買っては読みました。読むだけではあきたらず、自分で物語りを書き始めました。学芸会の脚本を書いたこともあります。(しかし、本ばかり読んでいたわけではありません。夏になると毎日のように父に水泳を仕込まれ、1年を通して野球にも熱中していました。足が速いわけではなかったのですが、センター、レフトを長くやらせてもらいました)
 中学の頃は医者だったかな。ブラック・ジャックに痺れてましたから(笑)。けどそれに見合った勉強は情けないことにしてません。
 このころ友達に誘われて山登りやキャンプを始めました。トムソーヤのノリです。仲間だけでテントをはり、火を囲み星を見上げながらあれこれ語る・・・これがたまらなかった。月の光の青さを知ったのもこの頃ですし、闇に音が飲み込まれる感じを知ったのもこの頃です。そうそう、兄にそのおもしろさを教わったレイ・ブラッドベリやアーサー・C・クラークの文庫本をジーンズのポケットにつっこみ、得意になっていた自分を思い出します。
 高校に入ると・・・高校は母の母校でした・・ワンダーフォーゲル部に入部しました。府立の普通科の高校だが市内でもめずらしく私服の学校で、リベラルな風が吹いていまし。ワンゲルでは、夏のアルプス遠征を目当てにトレーニングにあけくれました。とにかくよく走ったものです。広沢の池、大覚寺、清滝、嵐山、高雄、また御所や御室八十八カ所、妙心寺など、近辺(ばかりではないのですが)の名所旧跡がわれわれの練習場所で、そこまでランニングでいったり、30から40キロ程度のおもりのはいったザックを担いで歩いたりしました。おもりの入ったザックをおろした時の浮遊感と爽快感は今でも忘れられません。
 大学受験を控え、僕は進路の策定に入ります。学ぶことは好きでしたが勉強はそうでもない、というヘンな理屈を持っていた僕でしたが、受験のためにはその理屈も捨てました。そんな折り、父のいとこで栃木県で教員をしている人が我が家に遊びに来ました。みんなと夕食を一緒にとっていた時、その人が「てっちゃんは先生に向いている」といってくれました。どこがどう向いているのかよくわからなかったのですが、うれしい気分がしたものです。その気にもなりました。母のかねてからの願いと、その一言と、僕の偏差値上の都合もあって、信州大学教育学部の受験を目指しました。
 当時国立大学は一校一学部のワンチャンスしか受験することができませんでした。また共通一次試験と二次試験のふたつの関門をくぐる必要があったのですが、二次試験は3月初旬で、それまでに私立組の同級生の合否が次々決まっていく様は、初めて見るダイナミックな人生模様でした。僕の友達はどういうわけか推薦で入学を決めてる連中が多かったので、国立一本勝負の僕は「孤高の人」の気分を味わったりしました。そういえば、高校の頃の思い出の作家といえば、新田次郎、司馬遼太郎、首藤剛志といったところでしょうか。新田次郎の山岳小説にはすっかりはまってました。芥川や太宰、三島なんかも手を出してはみましたが、当時の僕にはまだその良さがよくわからなかったように記憶しています。
 大学にはなんとかもぐりこむことができました。高校3年生の時の猛勉強が効いたのでしょう。特別進学に強い高校でもなかったので、我ながらよく一発で突破できたものだと思います。合格を知らせる電報が届いた時は、本当にうれしかったです。母は泣いてくれました。父は浪人してもっといい大学に行けと興奮気味に言いました。兄はなんだか得意気な顔で「ふん、まあようやったな」と言ってくれました。(つづく)

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