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2006年2月28日 (火)

参観日でした PTA総会もありました

今日は今年度最後の参観日。センターの保護者の方もほとんどのご家庭が来てくださいました。
 そうそう来てくださったといえばセンターに文部科学省国立教育政策研究所の方が午前中に見学に来てくださいました。国立諫早少年自然の家に勤務されていたことがあったそうで、幾人も共通の知人がいて愉快でした。センターの取り組みを学社連携の視点から高く評価してくださり、うれしく思いました。「ぜひ成果発表をしてください」という主旨のアドバイスもいただき、感謝でした。
 
 で、参観日。私は3~6年生の学習発表会を参観しました。総合的学習の時間に調べ学習したことを個々人が発表するという内容です。みんなそれなりによく調べてあり、がんばったなあと感心しました。しかしおしなべて声が小さい。早口。もちろん堂々と話せる子もいましたが、それは天賦の才によるもので意識やトレーニングの成果とは言いがたいように思いました。少人数の学校なのだから、もっとしっかり発表できるといいのに。これは学年懇談会の席上でも私の感想として述べさせていただきました。発表をする、ということは人に聞いてもらう、ということですもんね。内容は及第点レベルなだけに、残念な気がしました。(このことに言及する保護者の方が少なかったように思いました。そこで満足しちゃもったいないと思うのですが欲張りですかね) でも。いい取り組みだと思いますよ。そういう意味では満足してます。

 それとPTA臨時総会がありました。合併にともない、会則の一部を変更する必要が生じたのでその承認と、新役員の紹介および承認が議題でした。その席上でも話題になったのですが、今まで村主催で行ってきた「離任する先生方とのお別れ会」につき、今年はPTA主催で開催するとのこと。私は先日自治会の会議で、この会は自治会で行ったらどうかと提案してきたのですが、ともあれ今年はPTAでやってくださるそうです。(って私もPTA) 
 村が感謝するという形式から、PTA会員が感謝するという形式へ。どちらも本質をついていると思いますが、時代の要請として後者を選択せざるをえない今日、なるべく多くの人に参加してもらえるよう、また手弁当の精神でもってこうした会が運営できるようになることを期待します。
 

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2006年2月27日 (月)

手作りのブースター

中山間地域のこどもたちのための自然体験活動「森のつどい」にて、先日冬山キャンプに行ってきました。その模様は、ここをごらんになってください。
 で、冬山キャンプで頭を悩ますのが寒さ対策。
 寝袋は2つ持っていくとか、使い捨てカイロを十分用意するとか、魔法瓶にお湯を入れていくとか、アンダーウェアの用意を徹底させるとか、手袋、靴下の予備はちゃんと用意させるとかは当然なのですが、寒さでガスバーナーの出力が低下するのは苦しい。去年はこれに苦労しました。なかなかお湯があたたまらないのです。手でガスタンクをつつみ、体温であたためたりしながら燃焼力を向上させたりしました。
 市販のブースター(出力口に金具を当て、熱伝導を利用してタンクをあたため、ガスの気化を促進させるもの)を購入することは可能なのですが、しかし私たちが使用しているバーナーのメーカーは純正品のブースターを用意していません。(使用メーカ-はsouth field。このメーカーの用品を使用する最大の理由は、最寄のアウトドアショップで入手可能なためです) 他メーカーのものを購入してもよかったのですが、ここはひとつつくってみようと思い立ちました。
 
○部品・・・0.3ミリの鉄板、0.1ミリの銅板、磁石(やわらかい形状のものでウラがシールになっているもの)

ブースター部品

○型・・・鉄板は「工」の型に切り抜く。上の-部はバーナーの炎が出る部分の形状に合わせる。銅板は鉄板の|部より上下2センチ程度長めの板状にする。
 ブースター完成品おもて

○組み合わせ・・・鉄板の下-部の左右に磁石テープを貼り付け、鉄板の|部に銅板を合わせて上下の余った部分を折り曲げるてはずれないようにする。
05eb9b3f.jpg

○バーナーとの組み合わせ・・・写真の通り、磁石の力を使って装着します。上の-部は炎になるべく当たるように微調整しましょう。
○鉄だけで作成しなかった理由は、鉄の熱伝導率が悪いからです。銅の方が鉄より5倍伝導率がいいのです。先に鉄のみで作成したところ、熱伝導が実用レベルでないと判断できました。なので後から銅を購入し、鉄板に銅を貼り付けるカタチになったわけです。比べてみるとホントに銅の方が熱が伝わるのが早いです。
○で、その威力ですが、当日はあまり寒くならなかった(とはいえ氷点下1~2度だったと思いますが)のでイマイチ評価しにくいです(笑) でも、火力に不満を感じることはなかったです。対比実験をしてみればよかったなと今になって思います。またしてみますね。
○なお、磁石テープですが、当初は熱による焦げや変形などの異常が起こるかと心配していたのですが、その部分はそれほど熱くならないのでまったく心配なしでした。
○ちなみに費用ですが、鉄板(0.3ミリ)がA3程度の大きさで400円くらい。銅板(0.1ミリ)はその倍くらいの大きさで値段も倍。これで6個つくれました。銅板は大半が余りました。一個当たりは200円ってところかな。
○ガソリンなどの液体を燃料としたバーナーは寒さに強いのですがしかし使用にそれなりの熟練が必要なので、センターではあまり使用していません。私はスベア123Rを長いこと愛用していましたが、カメラをやるようになって、ガス派になりました。フィルム(私はフジのベルビアのじゃじゃ馬なところをずっと愛していました。デジカメ派に移行する直前の1年間くらいはベルビア100を常用していました)を使う身としては揮発性の液体がもれたりするリスクはなるべく避けたかったものですから。デジカメ派になった今でもガスの便利さにかまけ、ガソリンバーナーはめったに使わない私です。
○講師で来てくださっていた中京女子大学の平田先生は、「新兵器」ということでオプティマス80NOVAを紹介してくださいました。オプティマスはスベア123Rのメーカーでもあります。スベア123Rが1800年代後半に作られたといわれる伝統ある一品(諸説あるようですが)に対してNOVAはオプティマス社100周年記念モデルだとか。なによりNOVAのいいところは燃料の広汎性。ホワイトガソリンはもちろん、自動車用ガソリン、灯油、ディーゼルオイル、それに燃料用菜種油までOKなのです。こいつは魅力!お値段は2万円弱。スベア123Rのおよそ倍です。う~ん・・・、ガスバーナー派から再び液体燃料派に戻りたくなっちゃう一品です。
 

○ところで話はぜんぜん違いますが、この記事を書いているとき、フジのベルビアが実は昨年末で「原材料入手困難」のため製造中止になったことを知りました。販売は在庫がなくなるまでで、見込みでは今年いっぱいらしいです。これは元ベルビア族の私にとってはショックな出来事でした。あのコテコテでエロティックな色調、大好きだったのですが。感度も50と使いにくいったらありゃしなかったし。←ソコがまたいい。  でも、露出がきちんとあったときの作品は本当に官能的な色になったものです。私はキヤノンのカメラを愛用していますが、キヤノンのレンズの発色も派手目です。派手目レンズとの相乗効果もあり、全身が泡立ってぞくぞくするくらい妖しい色を出してくれるフィルム、それが私にとってのフジクロームベルビア-通称「RVP」でした。

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2006年2月26日 (日)

僕が通年合宿の仕事をしているわけ⑦~しばしおわかれ~

その⑥の続きです。

 
 キャンプ前の激務が続いた。
 給料の不安は、この頃にはなくなっていた。夏前のこの時期には参加費を次々振り込んでくれており、なんとか給料が出るようにはなっていた。が、しかしキャンプの参加者数は伸びなかった。毎日ポストを見ては、首をかしげる日が続いた。
 しかし、である。このシーズンの現場、つまり夏キャンプそのものはたいへん印象的だった。いいキャンプができたと思っている。理由は簡単、参加者が少なかったからだ。
 大人のスタッフひとりあたりのこどもの数が少なければ、それだけコミュニケーションがとりやすく、指導もしやすく、活動もこわまりが効く。自然、キャンプの評価も高くなるというわけである。プロとしては大人数キャンプで高い評価を得るというところが本望であるかもしれないが、僕はこの時、少人数キャンプのよさを改めて実感した。だが、少人数の参加者でキャンプ団体が運営し続けることができるかというと、そんなことはない。厳しいところである。
 ともあれ、私は現場に没頭した。幸せだった。
 
 夏が終わった。秋の風が心地よくなった。
 そんな時、うちの団体で新たな仕事に本格的に取り組むことになった。

「浪合村に通年合宿を設置する」

このことである。

 当時の職場にしてみれば、三つ目の通年合宿設置の仕事である。一つ目は泰阜村。これは直接運営の形で設置した。二つ目は松川町生田地区である。これは地区住民の熱意に動かされ、新組織を立ち上げるという形であった。今回は村そのものからの依頼である。
 浪合村はそれまでも山村留学事業を行っていた。(財)育てる会という団体がその事業主体となっていた。実に8年間行っていたのである。しかし育てる会が何らかの事情で撤退していった。その事情については、僕は今だに多くを知らない。しかし村としては山村留学事業の必要性は高まっており、なんとか再開したい。そこで白羽の矢があたったのが、通年合宿事業のソフトを持つ当方とだったというわけである。また私達が行っていた短期キャンプのメインフィールドも浪合村にあった。村との縁は、薄くはなかったのだ。
 当時の村の熱意も、相当なものがあった。担当の方が連日事務所にやってこられては、理事長と長い時間懇談されていた。経営事情がよくない時期だったから、どんな仕事であれありがたいことに違いはない。しかし、通年合宿の設置は、当時の職場のような零細団体には大事業である。なにしろ、人がひとりの派遣は絶対に必要なのだ。そしてそれは、その当時の状況からすると僕以外にはありえない。しかし、事務所にもう大久保はいない。僕の仕事の守備範囲も広くなっている。二足のわらじを履こうにも、さすがにムリがあった。
 しかしそれでも、浪合村は通年合宿設置を熱望している。通年合宿を行うための村の施設の建設も進んでいた。
(つづく)(ここまで平成16年度文集掲載分)

・・・・そして今年度の文集掲載分に続きます。これは今執筆中です。

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2006年2月25日 (土)

僕が通年合宿の仕事をしているわけ⑥

その⑤の続きです。




 6月に結婚式をあげた。
 新婚旅行をかねて四国へ行き、香川県高松市の結婚式場に併設されている小さな教会で式をおこなった。ふたりだけの結婚式、と洒落てみたのだ。四国にはそれまで行ったことがなかったが、なんとなく気になるところだった。祖母が幾度か四国に旅行に行っていて、その土産話をうらやましく聞いていた覚えがあるが、もしかすると四国が気になる理由はそんなところにあるのかもしれない。ふたりだけの結婚式というのは、別に積極的な理由じゃなかった。仰々しいことが好きじゃなかっただけだ。
 四国でふたりだけの結婚式・・・。なんだかヘンな組み合わせである。
 ヘンな組み合わせは意外な展開を呼んだ。
 神父さんは外人さんだった。雰囲気のあるひげを顎にたくわえ、いかにもそれらしい。こりゃいいぞ、なんて思ったものだ。おごそかな式場で、青い目の神父さん。入場してきた私たちを愛情深い瞳でひと時見つめ、一言。
「ほなはじめまひょか」
思わず吹いてしまった。あまりに見事な関西弁だ。クレームのつけようがないアクセントと抑揚だった。妻は式の間中、ずっと鼻水が出たままだった。もちろん神父の関西弁に吹き出してしまった痕跡である。
 また「ふたりだけの結婚式」はこのあたりではめずらしかったらしく、式場の掃除係のおじさん、おばさんから営業や裏方のスタッフの方まで列席してくださり、
「大丈夫、幸せになれるって」
などと涙を浮かべながら声をかけてくれた。どうやら私達はあまり幸せそうには見えなかったらしい。営業の方は式の様子の一切を使い捨てカメラで撮影してくださり、
「これ、どうぞ」
とプレゼントしてくださった。貸衣装代なんて、なんと規定料金の一割だ。一割引ではない、一割である。びっくり価格だ。それなりの現金を握っていた私たちだが、当然のこと
「恐れ入ります。助かります」
なんていってそのチャンスを素早くゲットしたことは言うまでもない。

 高松から高知へ移動し、桂浜まで足を伸ばした。学生時代、司馬遼太郎氏の「竜馬がゆく」を読んで、またこの頃連載していた小山ゆう氏の漫画作品「お~い竜馬」を読んで、どうしてもこの桂浜に来たかったのだ。
 桂浜に坂本竜馬記念館という施設があり、そこには竜馬の足跡を日本地図にあらわす装置があった。竜馬の生涯を数分程度に短縮し、竜馬が活躍した場所をその期間に相当する時間だけ発光させるという仕組みである。竜馬は若くして暗殺されるわけだが、その死を迎える直前の数年は、まさに東奔西走、縦横無尽に動いている。そのことがこの装置で視覚的に、直感的に伝わってきた。
 人が動くと書いて、働く、である。まさにそうだと納得した。
 竜馬に触れた多くの若者がそうでなるように、僕も竜馬のように生きたいと思った。郷士の身分でありながら、果ては浪人になっても大きな夢を描き続け、否、夢を見るために浪人となり、大きな仕事をした竜馬。そんな生き方に、あこがれた。
 桂浜では、用意してきたコップ酒をあおって海を眺めた。
「海はでかいのう」
文字でし知らない土佐弁が口をついた。
 その夜、皿鉢料理を食べた。びっくりだ。二人前だなんて思えない。その上それに八寸はもちろん茶碗蒸しだの天ぷらだのがつく。豪快なものだ。二人で遮二無二舌鼓を打った。まさに料理と格闘したのである。断言してもいいが、あれは4人前だ。

 新婚旅行から帰ったら、すぐに7月だ。短期キャンプのシーズン開幕は、もうすぐそこである。つかの間の結婚式付新婚旅行が終わると、正真正銘の戦場が私を待っていた。
(つづく)

あと一回で今までの掲載分はおわります。ごめんね。

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2006年2月24日 (金)

僕が通年合宿の仕事をしているわけ⑤

3日ぶりの連載(?)です。その④の続きです。


 僕は松川町の通年合宿の現場を去った。短期キャンプの仕事に専念するようになった。松川の現場には門野(旧姓・星)も池延(前号に登場した、もうひとりのスタッフ)も残ってくれていたので、不安はなかった。しかし、短期の仕事の方は、難しい局面を迎えていた。バブル崩壊の影響で、キャンプの参加者減が著しくなっていたのだ。
 右肩下がりの業績は、キャンプが主な収入源である僕の職場においては大打撃である。給料の未払いも発生していた。昇給してもらったものの、しかし未払いではいいことなんてない。
 結婚式を6月に控え、切り詰める日々が続いた。

 当時の職場では毎年年度初めに関東方面と中京方面の役所・図書館などにキャンプ広報の営業に出た。中京方面は1,2日で一気に回ってしまうのだが、関東方面はそうはいかない。1週間は必要だった。経費削減で新宿のカプセルホテルを連日利用し、カルキ臭い風呂に入って汗を流し、マクドナルドや駅そばで腹をみたして歩き回った。結婚式はまじかに迫っていたしお金もなかったが、しかし夜は東京ドームや神宮球場に通った。安い外野席のチケットを買い、すきっ腹をだましつつ、ゲーム観戦に没頭した。
 ドームのなんだか不自然な明るさは野球とは縁遠い感じがしてあまり好きになれなかったが、天候に左右されず野球観戦ができるという点だけはありがたかった。しかしその点、神宮球場はいい。やはり野球は、野外スポーツだ。風がふき、雨がふり、デーゲームでは太陽がふりそそぎ、夕方ともなれば西日がさす。それが野球の重要な要素で、それがない野球などなんだかテレビゲームみたいで、なんだかごっこ遊びみたいで、「野球」と呼ぶには抵抗すら感じる。

 閑話休題。

 この年だったか。読売ジャイアンツ対中日ドラゴンズというカードを、東京ドームで観戦した。ゲームは白熱、延長戦に突入した。
 僕が贔屓にしていた選手に、落合博満という男がいる。彼はこの年ジャイアンツのユニフォームを着ていた。私はジャイアンツファンではなかったが、落合がいた3年間だけジャイアンツファンだった。この日も落合見たさにドーム球場に行ったようなものだ。
 落合はこのゲームでは右前にヒットを放っていた。延長のこの場面、打順はクリーンアップにまわってくる。僕は落合がサヨナラ安打を放つことを期待した。しかしそれは叶わなかった。主砲落合の前を打つ3番松井秀喜が、ライトスタンドで観戦していた僕の頭上をはるかに越す見事なサヨナラ大ホームランをかましたからだ。度肝を抜かれた一発だった。ものすごい打球のスピードだ。これはスタジアムで観戦しないとわからない。僕は落合が得意の右打ちで放り込む打撃を堪能したくてライトスタンドに座っていたのだが、おかげで松井のこの一撃を最も迫力ある場所で見ることができた。しかし、ドームのおかげで場外ホームランを見られなかった、ということについての不満は拭い去れず今もある。ともあれこの一撃以降、私は松井を注目し続けている。
 野球はいい。一瞬の残酷さと恍惚感は、他のスポーツにない魅力である。・・そんなことを思いながら、空腹のままカプセルホテルに向かった。
 僕の独身最後の春は、こんな調子だった。
(つづく)

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2006年2月23日 (木)

睡眠不足と心身の健康

受験シーズンです。また定期試験のシーズンでもあります。
勉強しなくなった日本人といわれるようになって久しいのですが、
それでもこの時期はもっともよく勉強している姿を見ることが多いのではないでしょうか。
 ところで、学業と睡眠時間について、いわゆる四当五落はどうやら誤りらしいです。
 ワシントンAPのCNNによると、(以下引用)

ワシントン(AP) 
現代の米国人は年齢を問わず慢性的な睡眠不足と言われ、中でも子どもが睡眠を十分に取らないと、学業が阻害されるとの懸念が指摘されてきた。
米ブラウン大医学部がこのほど、国立衛生研究所(NIH)の資金提供を受けて実施した研究で、これを裏付ける研究結果が明らかになった。

(中略・・実験方法についての記述がありました・・)

「記憶力、集中力に問題あり」「新たな学習内容が理解できない」などの評価は、睡眠時間を8時間未満に抑えた週に集中した。研究の成果は、12月発行の専門誌に発表される。
研究を率いた心理学者、ガハン・ファローン氏は「子どもを早く寝かすことは、学校に間に合うよう送り出すことと同じくらい重要だ」と強調する。
 

だそうです。寝る子は育つ、は本当ですね。たとえばセンターの小学生高学年は9時半に寝て朝6時に起きてますから、時間通りだとすると8時間30分の睡眠となります。ギリギリですね。
あと、朝型がイイ!とかいって朝3時とかに起きて活動するのはどうなのでしょうか。これについては勉強不足でわかりませんが。ここのサイトが参考になるでしょうか。少なくとも日中(9:00~17:00あたり)に仕事なり学業する人は、朝6時~の起床がよいようですね。もちろん早く寝て睡眠時間を確保することが前提ですけど。
 
 で、肥満解消と睡眠時間についても関連があるそうな。
 今度は共同通信から。(以下引用)

【ワシントン7日共同】睡眠時間が短いと食欲を刺激するホルモンの量が増えるとする論文を米国の2つの研究チームが7日までに発表した。睡眠不足が肥満の一因になっている可能性があるという。
 スタンフォード大のチームは30—60歳の約1000人を対象に普段の睡眠時間と血液中のホルモン量を調べた。5時間睡眠の人は8時間睡眠の人に比べ、食欲を刺激するグレリンが15%多く、食欲を抑えるレプチンの量は16%少なかった。
 対象者全体の約7割を占める睡眠時間が8時間未満の人に限ると、睡眠時間が短いほど肥満度は高かった。
 シカゴ大のチームは20代の男性12人について2晩連続で4時間寝た場合と10時間寝た場合のホルモン量を比較。4時間睡眠の後はグレリンが増えてレプチンが減り、空腹感が強まっていた。

 だそうです。もっと寝たほうがいいのかな、私も(笑)

 後、睡眠不足と運動能力との関係では、とりわけ判断力の低下というリスクを招くことが知られていますよね。たとえばこことか。
 
 睡眠時間を確保する、ということは、積極的な人生をつくる上でも重要なことなんですね。

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2006年2月22日 (水)

サッカー 日本代表VSインド代表

6-0でした。
 最初の1点がとれればぐいぐいいけるだろうな、と思ってて、でその通りになったから満足です(笑)
 しかし最初の1点がなかなかとれませんでしたね。
 私はFWにはとれない、と思っていました。これもその通り。
 ジーコ監督100点目、なんてプレミアがついたりしたら、ちょっと今の日本代表のFWには荷が重くなっちゃうでしょ。
 小野くんもちょっとムキになって攻めすぎてたような気がしたので、
「小野にもムリかな」
なんて口に出した5秒後、その小野くんが決めてしまってずっこけた私です。で、小野くんのカリスマパワーに感服した次第です。
 その後はザルと化してゆくインド守備陣をいいように崩していく日本、という図式でした。
しかし日本の攻撃が見事だったかというと、そうでもありません。結構ボールがとまってパス出す相手を探したりしてましたし。もちろんフレッシュなメンバーが入ってる今の代表チームですから仕方ない部分もありますが。だから「日本が強くて強くて・・・」という印象にはなりづらかったゲームですね。
 ただ寿人から久保、久保ゴール!というシーンは痺れました。
 寿人いいよ寿人。小さくて気迫があって早いやつ、私好きです。
 その典型的タイプが田中達也。
 寿人を見てて、田中達也の復活がまた一段と楽しみになりました。

えー、今日は「僕が通年合宿の仕事をしているわけ」はお休みです。



あのね。ファイルが行方不明でして・・・。どこかなあ。
紙媒体からPDFでとって、それをアップしようかとも思ったのですが。
まあ(もし読んでる方がいらしていたら)明日以降ご期待くださいってことで。

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2006年2月21日 (火)

僕が通年合宿の仕事をしているわけ④

③の続きです。

・・・ここまで来て気がついたのですが、①、②は「です、ます調」で、③以降は「だ、である調」になっちゃってます。ごめんなさい。



 小学校の衰退は地区の衰退を強くイメージさせる。町としても、町に3つある小学校の中で、生田の学校ばかり優遇するわけにもいかない。そこで地区民が立ち上がり、「おらが通年合宿」をつくって児童増に向け立ち上がったわけだ。
 うちの団体はソフト提供と人材提供をすることになった。しかし小さい団体にはすぐに提供できる人材がいない。人選に入ろうとも、その人が不足しているのだ。まわりを見渡しても、身軽に移動できるのは僕と大久保くらいだつた。そして現場指導経験は僕に分があり、志向に関して
も僕の方が強かった。僕はすぐにも立候補したかったが、しかしここには僕がいなければ滞る仕事もたくさんある。躊躇した。したが、しかし決めた。
「ふたつとも、やる」
これだ。
「そう来ると思ったよ」
大久保が言った。
「そういうやつだよな」
僕は何も取り得がないが、しかし人より運動量、というか仕事量が多かった。
器用にできないからその分人より多く動こう、働こう、これが当時の(一応今も)僕の信条のひとつだった。大久保はそんな僕のことを知っていた。
「おまえがやれない分はオレがフォローしてやるよ」
大久保が憎らしいほどさらりといった。
僕は希望を理事長に申し出た。理事長は翌日、僕の職員昇格と1年の出向を発表、僕の任務は松川通年合宿所所長として合宿所の設立し、その事業を軌道にのせ、新所長を発掘してパトンタッチすること」だった。僕の通年合宿のキャリアはこの時スタートした。

 とにかく、お金がない。町はこの事業に関してまったくお金は出さない。またうちの団体も補助金をもらって事業を興すことを潔しとはしていなかった。幸い、地区住民は通年合宿を誘致してくれただけあって、とても協力的だった。合宿が行える古家を捜し、参加者募集を行い、スタツフを募り、役場や学校へ幾度と無く出かけ、近所に挨拶回りをし、事業計画をたて、予算をたて、保険に加入し・・・やることはいくらでもあった。
 キャンプの仕事のノウハウがかなり生きた。でも、当時私は24才。もちろん独身である。はっきり言って、まだこども。周囲の好意と協力なしに、これらのことはできなかったと断言していい。「ありがとうごぎいました」という言葉が、本当に心の底からいえるようになった。
 オープンぎりぎりまでスタッフが決まらなかったが、3月に入って門野(旧姓星=きんぎょ)を得ることができた。もうひとり男性スタッフがいて、私と合わせて相談員は3人。こどもは6人集まった。補助金も何もないので、当然人件費も充分にはない。3人のうちひとりを住み込み研修生とさせてもらった。
 僕の身分は出向なので、給料は出向元からもらった。
 通年合宿がスタートすると、生田から飯田市山本まで通う日がはじまった。2足の草鞋はいやではなかったが、往復2時間半の通勤時間には閉口した。1日24時間が長時間通勤することによって21時間30分になってしまうのだ。
 はじめての通年合宿はいろんなことがあったが、キャンプの仕事を終えて合宿所にもどると大好きな現場がそこにあるっていうのはわりと良かった。
 ハタから見ると四六時中仕事していて大変だ、って感じがしたかもしれないが、僕はそうでもなかった。畑を耕し、ヤギを飼い、犬や猫と戯れ、薪で風呂をたき、山菜を探す・・・そこに都会っ子がいっしよにいて、目を輝かせて・・・ばかりじゃないが、しかし自然の中でみんなと暮らすってことは本当に楽しかった。家庭訪問の折り、松川中学校の某先生が、
「これこそ本当の教育の姿かもしれないなあ」
とおっしゃってくださつたことが印象的だった。

 大久保は短期の仕事を本当によくサポートしてくれ、合宿所のスタッフは献身的に通年合宿の日常を支えてくれていた。ずいぶんと迷惑をかけてしまったものだ。また僕の休日は、大げさではなく月に1日程度だったのではないか。勤務カレンダーでは休日でも、キヤンプの事務所か合宿所に顔を出すのは日常茶飯事だった。仕事に打ち込むとはそういうことだと、僕は思い定めていた。それは僕だけではなく、大久保も他の仲間も同じだった。
 たまに飲む大久保との酒がうまかった。うまかったなあ。

 疾風怒濤の1年がすぎようとしていた頃、僕は結婚する決意をした。25才の春だ。
 早いが、その方が僕にとってはいいと思った。嫁さんになってくれる人は生田の人だった。もっとも出会ったのは学生時代で、しかも浪合がその場所だった。思えば不思議な縁である。
 僕には本当に不似合いな、(当時は)かわいい嫁さんだった。菜の花が咲く頃、僕の任務は概ね完了の見通しが立った。次の所長も見つかり、引き継ぎを終え、4月から僕は飯田の事務所に戻った。清内路村の村営住宅で新婚生活が始まった。大久保はデザイナーになるため事務所を去った。再びふたりで仕事をするようになるのは、まだ少し先のことだった。
(つづく)(ここまで、平成15年度文集掲載分)

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2006年2月20日 (月)

僕が通年合宿の仕事をしているわけ③

その②の続きです。



 大学を卒業して野外教育団体に研究員としてひろわれた僕は、飯田にやってきた。すまいは清内路村で、村営住宅をお借りしてくらした。研究員という肩書きだが、やつている内容はむしろ「研修生」といった方がよく、オン・ジョブ・トレーニングののりで、短期自然体験キャンプの企画・管理・運営のお手伝いが主だった。研究といえば、キヤンプの評価アンケートの改良と、
今までのキャンプの事例のまとめをやったくらいである。
 同期に、
大久保というおもしろい男がいて、この男と酒を飲むことがこの頃の無上の楽しみだった。大久保は千葉県出身の男で、とにかく愉快な奴だ。彼は切れ時鋭い頭脳とデザイナーとしての優秀な才能を持っていた。彼はその後デザイン会社を興すのだが、それはまあ、別のお話。

 事務所での仕事は朝8時30分から。夕方6時から2時間程度、糊口をしのぐために塾の講師をやり、9時からまた事務所に戻って仕事した。帰りはたいてい年前様。それから僕の家か大久保の家で一杯やって、そして眠る。そんな毎日だった。
 キャンプのパンフレットづくりや会員向けの新聞を作る仕事はとりわけ楽しかった。大久保とのコンビが小気味よかった。おおざっぱだけど早い僕の仕事と、時間はかかるけど緻密な彼の仕事。文章もイラストもその特性がはっきり出た。違いがあるから組む意味があることをこの時知った。
 大久保は飯田のデザイン会社のアルバイトもしており、彼がデザインした焼き肉屋の看板は、
しばらくアップルロードの中心付近に立っていた。
 パソコンの操作を覚えたのもそのころだ。ウインドウズなんて便利なものはまだウチの事務所には導入されておらず、キヤンプの班分けやアンケート集計も、自分でプログラムを組んでやっていた。視力を落としたね。体重も増えたぞ。ちぇ。

 それらの仕事はおもしろかつたしやりがいもあつた。しかし、事務仕事が多かった。それは仕方のないことなのだが、事務仕事ばかりやりにきたんじゃないぞ、という逮和感が、少しずつ僕の胸に広がっていったのも事実だった。
 僕は、こどもといっしょにいる現場が、とにかく好きなのだ。
 僕の企画したキャンプで、気球を空にとばそうというものがあった。春、GW、夏の3つのキャンプでプロセスを構成し、目的を達成しようというキャンプで、キャンプを構成するメンバーは大人もこどもも固定されている。気球のモデルづくりから実験を繰りかえし、だんだん大きな気球をつくって、最終的には3年生のこどもを宙に浮かそうというプラン。
 みんな夢中になった。大人もこどもも一生懸命だった。だから、遊ぶ時も集中して遊び、寝る
時も集中して眠った。最終日の朝、気球が大きく膨らみ、パイロットのこどもが宙に浮遊する瞬間を見ようとみんながそれぞれの持ち場で必死に働いたが、しかしその夢は叶わなかった。身代わりに、もう少し軽い人形を気球につけた所、気球はふわりと浮き始めた。間違いなく、空に昇ってゆく。少ししてから安全紐を引き、ゆっくりと地面におろす。おだやかに着地する人形。はじける歓声。あちこちで握手がかわされる。
「くず、来年もやろうよ、僕、また来るからさ」
僕の服の裾を掴んで、パイロツトの少年がいう。彼は、飛びたかったのだ。
 後から聞いた話だが、その少年は少しでも身軽になるようにと、前日の夕食はほとんど食べなかったらしい。悪いことをした、なんで気づかなかったんだろうと僕は後悔した。
 こんな感じの現場が、僕は大好きだったのだ。
しかし、現場をつくるためには裏方がいる。キャンプはその準備と総括が重要で、現場はその間にはさまれた夢のような時間、という言い方もできる。
 準備に費やす時間が圧倒的に長い。およそ2ヶ月の現場シーズンのために10ヶ月を要するのだ。これがオレの生きる道だし、と覚悟を決め、受け入れようとした時、ひとつの話が舞い込んだ。

「松川町生田(いくた)地区で通年合宿をやりたがっている。その事業を担当できる人間が欲しいので、その面倒をみてくれ」
という話だ。

 僕がいた団体は通年合宿のソフトを持っていた。また、泰阜村で既にひとつの通年合宿事業を展開しており、僕もかなり強い関心を寄せていた。団体の先輩がそこで担当者をしており、こどもと暮らす中で、定住型の自然体験と共同生活体験を試行錯誤しながら展開していた。学校教育と、家庭教育、それから社会教育を融合させたカタチの取り組みだ。イギリスのパブリツクスクールを連想させる事業だと当時の私は思った。
 松川町生田は過疎地域である。松川町自体は大きな町だが、生田地区は当時でも小学校が全部で50人程度。複式学級の誕生は目の前だった。中学は地区にはなく、町にひとつあるだけである。
(つづく)

 関係ありませんが!
 松井大輔選手がフランスのリーグ・アン(一部リーグ)で月間MVP獲得!うれしいじゃないですか。トリノオリンピックで苦戦が続く中、サッカーは好調。先日の国際親善試合、日本対フィンランドも、左サイドの村井の活躍は目覚しかったし、久保の動きもよかった!(今期J1開幕戦で我がサンガはマリノスとあたっちゃいますが・・・) 佐藤寿人と右サイド駒野のコンビもよかったし、なんといっても小笠原のおよそ60メートルのループシュート!!ジーコも「ペレ、マラドーナクラスのシュートだ」と絶賛してました。スゴイ!
 でもやっぱ松井大輔がスゴイ(笑) 

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2006年2月19日 (日)

僕が通年合宿の仕事をしているわけ②

①の続きです。



 大学でも山登りをしようとしたのですが、資金集めのアルバイトのつもりではじめた野外教育キャンプのリーダー体験が、人生の転機になりました。きちんとした理念を持つ野外教育キャンプの魅力に捉われたのはもちろんですが、すばらしいポテンシャルを持ったキャンプリーダー仲間との交流が実に刺激的でした。僕は大学にいるよりも、キャンプの準備、実施、始末といったあれこれを、そんな仲間たちとあいまみえながらできる現場を愛してしまったのです。キャンプの主なフィールドは、浪合村でした。またこの頃苦労しながら読んだI・イリイチミシェル・フーコーF.アリエスといった人々の著作に触れてしまったことも、当時の自分のあり方に大きな影響を与えているような気がします。

 松本市や長野市から飯田や浪合に通うのは容易ではありませんでした。当然お金もありません。だからヒッチハイクなんてものも覚えました。僕を乗せてくれたトラックの運ちゃんが、僕が教育学部の学生だと知ると、思春期を迎えた娘を持つ親の悩みを打ち明けてくれました。トンネル掘り職人さんはとにかく無口で、それでいてクルマは猛烈なスピードでした。別れ際、「気をつけろよ」といってくれたのですが、無口な人だっただけにその言葉はずしんと胸に響きました。金ぴかの車のオーナーだった和尚さんは「無茶が何かわからんようになる時だ。親を泣かすな」といって小遣いをくれました。飯田からの帰りに乗せてくれた小荷物輸送の運ちゃんは、最初は「塩尻までだぞ」といっっていたのだが、話がはずんじゃって「よっしゃ、松本までまわったる。そのかわり学校の試験がんばれよ」なんていってくれました。分けてくれた梅干しのおにぎりがおいしかったことを思い出します。

 大学の4年間はたちまちのうちに過ぎていきました。親には先ほどの和尚さんには申し訳ないけど、心配をかけなかったとはいえません。むしろ、たくさんの心配をかけたのではないかと思います。教師になるはずの息子が、キャンプ屋の修行みたいなことをやっているののです。その上、たまに会うと学校教育は今後確実に変わって行くし野外教育の重要性も増していくに違いない、なんて演説をしちゃうのです。呆然ともさせたでしょう。ゴメンナサイ。
 教員になろうとチャレンジはしました。京都に帰ろうとは思わなかったので、長野で受けました。これは失敗しました。そこで僕は民間の野外教育財団の研究生に応募し、拾っていただきました。研究生とはいっても、実質は丁稚のようなものです。収入もほとんどありません。塾の先生をして糊口をしのぎました。1日中、仕事していたような気がします。
(つづく)(平成14年度文集掲載分)

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2006年2月18日 (土)

僕が山村留学の仕事をしているわけ①

え~。
 毎年この時期、センターでは記念文集をつくっています。今年のメンバー(こども、スタッフ、保護者)の作文で構成される文集です。
 私はここに、「僕が通年合宿の仕事をしているわけ」という連載をしています。
 しかし、連載だと困ることがあります。
 そうです。その年限りで家に帰ってしまうこどもたちやその保護者は、その年の掲載文しか読めないのです(笑) 
 別に読みものとしてオモシロイわけでもないと思いますが、しかし「今までのが気になる」とか「どうなったか知りたい」という声も(少しですが)あります。
 なので、ここしばらくの日記は、今までに掲載した分を、さらに分割してアップしていきたいと思います。
 以下の文章は、園生に語りかけるつもりで書いたものです。一人称が「僕」なのは、この連載を始めたときの私の一人称がそれだったからです。
 それと、「通年合宿」とありますが、これは「山村留学」「国内留学」などに置き換えてもらってもかまいません。ここが浪合通年合宿センターだから、「通年合宿」としているだけです。ただし、この言葉には「里親制」の山村留学の意味は含んでいません。
 興味ない人は読み飛ばしてください。
 では。
・・・・・・・・・・・・ここから・・・・・・・・・・・・・・・・

 僕が通年合宿の仕事をしているわけをお話しましょう。
 僕は最初から通年合宿の仕事がしたくて大人になったわけではありません。だいたい、通年合宿なんてものがあることも知らなかった。
 僕の父は技術屋さん。どうやら息子には技術屋になってほしかったみたいですが、あまり親の願いをいう人ではありませんでした。母はというと、自分の夢である教師になってほしかったようです。
 母は兄弟がなく幼い頃に父を亡くし、病気がちの母(つまり祖母)に一生懸命育て上げられた人です。勉強はそれなりにできたようですが、とても大学に行ける余裕などなく、高校卒業と同時に働き始めます。だから、やりたいことができなかったうらみのようなものが、母にはずっとありました。そんな母の夢が、教師なのです。
 僕は小さい頃から、母の期待を感じていました。僕には兄と弟がいるのですが、母の夢は主に僕に注がれていたのではないでしょうか。それがなぜかはわかりません。もしかすると勘違いかもしれませんが、僕が教育学部を選んだ時、また受験に成功した時、母の喜びはとても大きかったように思います。
 でも子どもの頃の僕は、そんな母の思いには頓着していませんでした。今でも自分が何になりたかったか覚えていますが、まず小学校の低学年の頃はパイロットでした。理由はてんで覚えていません。クラスの仲良しがパイロットを目指していたとか、そんなところだったのではないでしょうか。高学年になると、小説家になりたいと思うようになりました。その頃の僕はよく本を読んでいました。読書家の兄の影響なのですが、とにかく読みました。ジャンルは問いませんでしたが、当時一番読んだのは北杜夫氏、星新一氏。田辺聖子氏とか筒井康隆氏の作品も読んだかな。学校の図書館の本にはほとんど見向きせず、安い文庫本を小遣いで買っては読みました。読むだけではあきたらず、自分で物語りを書き始めました。学芸会の脚本を書いたこともあります。(しかし、本ばかり読んでいたわけではありません。夏になると毎日のように父に水泳を仕込まれ、1年を通して野球にも熱中していました。足が速いわけではなかったのですが、センター、レフトを長くやらせてもらいました)
 中学の頃は医者だったかな。ブラック・ジャックに痺れてましたから(笑)。けどそれに見合った勉強は情けないことにしてません。
 このころ友達に誘われて山登りやキャンプを始めました。トムソーヤのノリです。仲間だけでテントをはり、火を囲み星を見上げながらあれこれ語る・・・これがたまらなかった。月の光の青さを知ったのもこの頃ですし、闇に音が飲み込まれる感じを知ったのもこの頃です。そうそう、兄にそのおもしろさを教わったレイ・ブラッドベリやアーサー・C・クラークの文庫本をジーンズのポケットにつっこみ、得意になっていた自分を思い出します。
 高校に入ると・・・高校は母の母校でした・・ワンダーフォーゲル部に入部しました。府立の普通科の高校だが市内でもめずらしく私服の学校で、リベラルな風が吹いていまし。ワンゲルでは、夏のアルプス遠征を目当てにトレーニングにあけくれました。とにかくよく走ったものです。広沢の池、大覚寺、清滝、嵐山、高雄、また御所や御室八十八カ所、妙心寺など、近辺(ばかりではないのですが)の名所旧跡がわれわれの練習場所で、そこまでランニングでいったり、30から40キロ程度のおもりのはいったザックを担いで歩いたりしました。おもりの入ったザックをおろした時の浮遊感と爽快感は今でも忘れられません。
 大学受験を控え、僕は進路の策定に入ります。学ぶことは好きでしたが勉強はそうでもない、というヘンな理屈を持っていた僕でしたが、受験のためにはその理屈も捨てました。そんな折り、父のいとこで栃木県で教員をしている人が我が家に遊びに来ました。みんなと夕食を一緒にとっていた時、その人が「てっちゃんは先生に向いている」といってくれました。どこがどう向いているのかよくわからなかったのですが、うれしい気分がしたものです。その気にもなりました。母のかねてからの願いと、その一言と、僕の偏差値上の都合もあって、信州大学教育学部の受験を目指しました。
 当時国立大学は一校一学部のワンチャンスしか受験することができませんでした。また共通一次試験と二次試験のふたつの関門をくぐる必要があったのですが、二次試験は3月初旬で、それまでに私立組の同級生の合否が次々決まっていく様は、初めて見るダイナミックな人生模様でした。僕の友達はどういうわけか推薦で入学を決めてる連中が多かったので、国立一本勝負の僕は「孤高の人」の気分を味わったりしました。そういえば、高校の頃の思い出の作家といえば、新田次郎、司馬遼太郎、首藤剛志といったところでしょうか。新田次郎の山岳小説にはすっかりはまってました。芥川や太宰、三島なんかも手を出してはみましたが、当時の僕にはまだその良さがよくわからなかったように記憶しています。
 大学にはなんとかもぐりこむことができました。高校3年生の時の猛勉強が効いたのでしょう。特別進学に強い高校でもなかったので、我ながらよく一発で突破できたものだと思います。合格を知らせる電報が届いた時は、本当にうれしかったです。母は泣いてくれました。父は浪人してもっといい大学に行けと興奮気味に言いました。兄はなんだか得意気な顔で「ふん、まあようやったな」と言ってくれました。(つづく)

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2006年2月17日 (金)

耐寒トレーニング

来週にせまった雪山キャンプに向け、今日は耐寒トレーニングをセンターで行いました。12月から毎日炎があった薪ストーブに、今日は火が入りません。火の気がないまま、明日の朝までそごします。
 夜は窓を一部あけた大広間で寝ます。フローリングの上にテントマットを敷き、寝袋をニ重にして寝るのです。もちろん寝巻きじゃなく、スキーウエアなどを着込んで防寒対策をしっかりしてから寝袋に入ります。
 おそらく今夜から明日にかけての最低気温はマイナス6~8度。当日も当然これくらいの気温になるでしょう。もっと低いかもしれません。そうなれば、雪の上にテントをたて、そこで寝るのですから、状況はより厳しいはずです。そこで一夜を明かすわけですから、やはり事前の耐寒トレーニングはかかせません。
 だいぶ寒が緩んだとはいえ、やはり火の気がないセンターは寒いです。なので
「どうせ寒いならさあ」
とナイタースキーに出かけていったこどもたちも多数います(笑)センターに残ったのは女子ばかりで、その女子たちはダンスを踊って自家発電にいそしんでいます(笑)
 あさっての月曜日からは、スノーシューの脱着トレーニングも行います。これも自力で自由にできるようになっていないと、本番になって困ります。
 今年最後のチャレンジ企画、「雪山キャンプ」。
 厳しい自然に向かっていく準備は、心をしゃんと奮わせます。

 なお、雪山キャンプの行程は林道を歩くハイキングコースがほとんどで、雪崩の心配や雪屁を踏み込んで転落してしまうような危険な場所はありません。ご安心ください。
 当日は月齢的に月の明かりも乏しく、星空が猛烈に広がることでしょう。晴れてればの話ですが。あと、この時期、とくに夕方、テントを張る予定の場所からは、蜃気楼現象で三重方面の海が南東の空に浮かんで見えることがあります。これも楽しみです。

 とにかく、天気が良いといいのですが。

 ・・・実は、しっかり対策を施したテントの中は結構あたたかいものです。しかもたくさんの人が入ってればなおさらです。雪が十分にあれば、まわりに雪ブロックで壁をこしらえたりすると一層快適になります。これ、ホント。

 それと、今夜中日新聞さんが取材に見えたのですが、寒いなかで申し訳ありませんでした。記者さん風邪気味で、ほんとお気の毒でした・・。スイマセン、耐寒トレーニングなんかしてて。

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2006年2月16日 (木)

たとえば今日の夕飯

・白飯
・えのきとネギと豆腐とアゲの味噌汁(→味噌はもちろん自家製味噌)
・水菜とシーフードのサラダ
・ブロッコリー
・コロッケと白身魚のミニフライ
・キンカン
でした。
 これを大人ふたり(今日はボランティアの女の子が来てくれていたので。いつもはひとりです)とこどもふたりでつくります。
 この時期は5時50分から食事づくりに入ります。
 今日の当番はまあちゃんと山ちゃん。ふたりとも小学生です。
 やまちゃんは
「おれ、味噌汁つくるね」
と言ってくれました。冷蔵庫をのぞいて材料を物色します。
「豆腐が今日が賞味期限だから使ってよ」
なんてことをいうと、
「じゃ、そうする。後は・・・」
材料が決まったら後の手順はお手の物。
アゲを油抜きすることだけかな、アドバイスしたのは。
 まあちゃんはボラの方といっしょにシーフードサラダを作ってくれました。
 水菜を切って、シーフードをゆがいてあら熱とって、オリジナルドレッシングをつくって・・・楽しそうにやってました。おいしくできてましたよ。
 コロッケとフライは私があげました。
 ブロッコリーは、シーフードサラダが少なめだったので、急遽加えたメニューです。
 山ちゃんがブロッコリーを株のまんま鍋に入れようとしたのは笑っちゃいました(笑)
「あ、そうか、切って入れてるよね(笑)」
マジぼけだった山ちゃんです。

 それと今日最もびっくりしたのはキンカンがおいしかったこと。
 ボランティアの女の子>はまゆう が持ってきてくれたんですけど、
宮崎県の西郷村きんかん部会でつくってるキンカンです。ほんとにおいしい。
人生で一番おいしかったキンカンでした。

 それはそうと(笑)

 夕飯づくりはだいだい1時間くらいかけてにぎにぎしく行っています。
いろんな会話があって、楽しいです。
 料理も大詰めになると、調理台の上に16枚の皿がならび、
そこに主菜、副菜を乗せていきます。なるべくキレイに、目でも楽しめるように。
とはいうものの、そこが結構難しい。
だけど、料理がのったお皿をこどもたちが見て、
「おいしそ~」
って言ってくれると、うれしいです。
作りがいがあるってもんですよね、食事当番のみなさん!!
 

で、実際おいしいですよ。なんたってみんなで食卓を囲んでわいわい食べてるんです。もうなんだっておいしくなっちゃう!・・とは言いすぎですかね(笑)

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2006年2月15日 (水)

雨だよ、雨

昨夜から今日にかけて宿直でした。雨がすごかったです。
 ざんざんざんざん、屋根に叩きつけるような雨。
 こどもたちがまだ起きている時間はにぎやかなのでなんてことないのですが、小学生が寝てからは広い大広間に雨音が響きます。
 朝には雨は上がっていましたが、しかし今度は路面がツルツル。ちょっとした斜面だと立っていられないくらいです。特に遊楽館からセンターまでの凍結路は意地悪なくらいツルツル。
 砂まきながら足場を確保し、それから塩カルまきました。気温も上がった日なので、夕方にはしっかり氷は溶けました。こどもたちも安心して登下校できます。
 しかし雪山キャンプまではたっぷりの雪があって欲しいなあ。

 そうそう、U-keryというスノーシューとテレマークスキーのあいのこみたいなアイテムが登場したようです。登山靴でも装着できて、エッジがついてて、接地面はシールが全面貼付されているんです。登りはそのシールが効いてぐいぐい行けて、下りは滑走できるというスノーシュー(と言っていいのか?)。気になります。
 昨年はまったフリーベンチャースキー(ショートスキーでビンディングを調節すればかかとがあがって歩けるアイテム。シールを貼れば登りもばっちり!これはイイ)は残念ながら生産終了だそうで、メーカーのロシニョールは反省してほしいと思っていましたが、U-keryはどうなんだろ。
 けどスノーシューの浮力を生かした下りも快適なんですよ、ジツは。かえって転倒のリスクがあるスキー系は、カメラ機材を常に持ち歩く私にはリスキーかも、と思っています。けど、テレマークやフリーベンチャーはやめられないっすけどね。

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2006年2月14日 (火)

バレンタインったってねえ

あたしゃなんもいいことありませんでしたよ。
 家内はあたし以外のスタッフみんなにチョコあげたようですけどね、あたしにはなーんもなし。相談もなし。やんなっちゃうよねー。
 OLの7割ほどが「バレンタインなんてなくなればいい」と思ってるそうですけど、でもこの習慣がなくならないのはなんででしょー。やっぱみんなで一斉にやめるとか、キャンペーン張るとかしないとダメなんスかねえ。
 しょーがないから事務所の菓子箱からチョコつまみ食いしましたよ。別にしょーがなくないかな。なんだかわかんないや。っけ!
 山村留学の子も前日からやや興奮状態だったそうですよ。チョコチョコチョコチョコチョコチョコチョコって。はー。
 うちの息子に「いくつもらった?」って聞いたら指折数えて教えてくれましたよ。まさかこんなに早く追い抜かれるなんて。ちぇ。

 あ、別にチョコなんて欲しくないっすから。ほんとだよ。ほんとうなんだよ。

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2006年2月13日 (月)

蛇峠山へ下見に行きました

朝から快晴!
 今日は今月末の雪山キャンプの下見の日。中京女子大学の学生さん6人と平田先生に来ていただき、村内の蛇峠山(約1600M)に行ってきました。スノーシューを一応用意したものの積雪量もそれほどじゃなく、雪もしまっていたのでスノーシューはしばらく使わなくてもよかったです。
 それにしても!
 今日はとってもいい天気です。雲ひとつなく360度展望は開けています。御岳、乗鞍、穂高、中央アルプスはもちろんのこと、霧が峰、八ヶ岳、仙丈岳から聖まで南アルプスの峰々がバッチリ!!名古屋の緑区からも中高年のパーティが来ていらっしゃいましたが、その方々も感動されていました。ガイドの方は「今年の冬10回くらい来てるけど、今日の天気は最高だあ」とおっしゃっていました。
蛇峠山下見
 写真は蛇峠山の山頂にある展望台から見た南アルプスの風景です。
 下りはずっとスノーシュー。行きは林道を中心に歩きましたが、帰りは山道をなるべく選択しました。
 スノーシュー特有の、浮くような、滑るようなそんな歩行を満喫できるのは下りです。アドベンチャーちっくに斜面をどーんと滑り降りたとき(体全部をつかって滑り降りるんです)は歓声があがったなあ。
 とにかく気持ちよかった。本番が楽しみです!

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2006年2月12日 (日)

焼肉食べたよ

今朝8時に静岡をたち、お昼すぎに家に到着。ちょっと休憩してセンターに行きました。体験合宿生が今日くるんだよね。私の勤務は非番なんですが、それでも立場上挨拶に行かなくちゃ。3時から30分ほど懇談させていただきました。その後は幼稚園・保育園のこどもたちのつどい参加者を阿智村まで送る運転手をしました。
 でもって私が留守中にクラッチの不具合で動かなくなってしまった車をピックアップに行きました。日が暮れないうちにということで、急いでいきました。国道の退避所に止められていたそのクルマは、いかにも頼りなさげでした。ロープで牽引したのですが、峠道の牽引はのぼりはいいけど下りは怖いですね。牽引車のブレーキワークや牽引ロープの張り具合が気になっちゃって仕方ありません。
 なんとか現場から3~4キロ先のガソリンスタンドまで運べたのですが、やー、披露宴の祝辞なんてものじゃないくらい、緊張しましたぜ。
 ところで今日は、今年度の幼稚園・保育園のこどもたちのつどい最終日だったので、反省会などが終わってから関係スタッフといっしょになじみの焼肉屋へ行って夕飯を食べました。
 久々の焼き肉は・・・おいしかったなあ。浪合の夏焼「なつやき」ってお店、いけますよ。

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2006年2月11日 (土)

彼女のドレスは赤だった。

b9bfd5c5.JPG 今日は元スタッフの女の子の結婚式に行ってきました。
 祝辞を述べさせていただいたのですが、若干緊張したものの、いつものように小うるさいことばかりベラベラしゃべってスイマセン。どうか私は説教くさくっていけません。誰に言ってるって、多分私に言ってるんですよ、「結婚生活は維持することに努力しないと破綻なんてすぐするよ」ってくだりは特にね。

 お色直しは1回。「さー花嫁のドレスは何色に変わるでしょうか」ってクイズがあり、私は当然のこと紫に投票。
 だって披露宴のしおりによると新郎の趣味は「サッカー観戦」だし、「一番思い出に残ったデートは?」という問いに対する彼の答えは「京都」ですよ。そんでもって私が祝辞をさせていただいてる。これでドレスの色が「紫」じゃなきゃ、それらは全部コテコテのフェイクじゃないですか。古畑任三郎だって「紫」って言いますよ。ええ、きっと言います。
 でも。正解は「赤」。
 花嫁、私のヨコをそのドレスで通るとき、「紫じゃなくってすいませ~ん」って(笑)。
 ・・・・そうか、ここはアウェイか(笑) 
 それにしても赤はないよな。

 で、披露宴でさんざん酔っ払ったあと、とある女の子と静岡の町を散歩に行ったのはいいのですが、プチ迷子になってうろたえていたのは私です(とほほ)
 それと特にいろっぽい話があったわけじゃないので念のため。ホテルでだって有料チャンネルは見ずにオリンピック見てた健全中年なんだから。

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2006年2月10日 (金)

今日のお仕事

今日は朝10時に地区の自治会長さんの家で意見交換。それから支所に行き、3月上旬に開催予定の会議について呼びかけ事務のお願いをしてきました。
 で、お昼前にはセンターへ。
 地域こども教室推進事業の1月の報告書がまだ作成できてなかったので大急ぎで作って送信、こども夢基金から「なみあいっこの家」事業の事業報告につき修正点など示していただいたのでその対応、中日新聞へ写真の提供をするための写真選定作業、などなどを行いました。
 お茶休みにはカメラクラブの打ち合わせを会長さんとさせていただきました。
 そうそう、きんぎょが今日も信濃毎日新聞に登場。最近すっかり有名人です。
「結構色白に写ってるね」なんて本人言ってますが(笑) 
 夕方には中京女子大学のガクチョウ(本物の学長さんではありません(笑))から電話。今月末に開催予定の「雪山キャンプ」の下見の日程打ち合わせを行いました。

 そうそう、今日はセンター園生のひとりが誕生日。誕生日にはお好みメニューを作ってあげるのですが、「お好みメニューはお好み焼きだ!」なんてことになってて、つくりましたよお好み焼き20枚!それもビッグなやつ!!
 私も関西出身、お好み焼きはお手のもんやで~って感じです。(忙しかったですが・・・)
 こどもたちはそれからナイタースキーへ。私はスキー引率当番ではなかったので翌朝の煮物なんかをことことつくってました。
 こどもたちが寝てからはいつものしめくくり事務などをし、ボランティアに来てくれていた「のりべん」(千葉大学教育学部4年生)としばし懇談。というかついつい説教モードになってしまう私は反省しなくちゃいけませんね(笑)

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2006年2月 9日 (木)

今夜は今夜で、今朝は今朝で

昨夜はセンターでは「逆境ナイン」を鑑賞したようです。うちの息子も「見たい」というのでセンターでお世話になりました。評判はまあまあだったようです。(私は期待していただけにランクDを出してしまいましたが→逆境ナイン)
 それと同じ時刻、私は阿智村中央公民館にて「阿智の地域開発・地域戦略を戦略的に語る夕べ」(仮称)に参加してきました。飯田市で体験教育旅行を手がけてきたこられた方の事例報告を聞かせていただき、「戦略」についての基本的な事柄のレクチャーを受けた後(基本的なことですからみなさんご存知だったと思いますが。メインとなったのはSWOT分析についての話でした)、個々に語り合い(しゃべくりあい?)ました。3人を除いてみな議員の方々でしたが、みなさん元気です。第1回の会議だったのですが、今後2,3ヶ月に1回程度の開催になるでしょうか。座長は飯伊森林組合の組合長さんになりました。で、私、この会の事務局を担当させていただくことになりました。

 で、今日は私、実はお休みなのですが、いろいろがんばります(笑)
 これから浪合地区の議員さんとこへ挨拶まわり。散髪にも行きます(これは休みっぽくっていいなあ)、あと、来年度の予算で調整した方がいいところを見つけたのでその修正。センターには休みの子が多発してしまったので(風邪とインフルエンザの同時多発発生・・・5人休みです・・)陣中見舞いにも行ってきます。週末には若い職員に研修に行ってもらうのでその面倒も(失礼)みてやらなきゃ。

 家内のインフルエンザは完治といっていいでしょう。娘はおかげにインフルエンザではなく、ただの風邪でした。こちらも快方に向かっています。

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2006年2月 8日 (水)

事業計画と予算

 来年度の事業計画と予算について、浪合支所長(9:00~)と
阿智教育長(11:30~)に説明に行ってきました。特に阿智教育長さんは
明日は出張だからということで、急遽午前のうちに時間をとってくださり、たいへんありがたっかたです。
 補助金の額は今年度と同じ額で予算を組み立てました。来年は車検がふたつあるのですが、与えられたお金の中でやりくりしていこうかと思っています。
 査定はこれからです。合併して最初の予算ということになります。どのような査定になるのか、山村留学だけでなく、いろいろな分野について、元浪合村民は深い関心を持って見るでしょう。
 
 午後はスタッフミーティングでした。例によって焼く3時間、総務、通年、短期、出版・web関係などについて打ち合わせをしました。

 外は雪です。銀世界が戻ってきました。
 センターの子は・・・インフルエンザ(A型)感染者がついに登場。生活区間をわけ、さらなる感染を防ごうと思ってます。マスクも全員に配布。うがい、手洗いの強化も行います。

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2006年2月 7日 (火)

「永久保存版!みんなで歌おうアニメソング カウントダウン2006」

5位のマジレンジャーはどうかと思ってしまった私ですが、みなさんいかがお過ごしですか(笑) でもきらいじゃないですよ、あのエンディングテーマ。映像もがんばってた。出色の出来でした。
 でもザンボット3はぜんぜん出てきませんでしたね。きんぎょのとこのよしが好きなのに。
 あ、今ラスカルの名シーンやってる!ラスカルは好きだったなあ。「遥かなるわがラスカル」ってのが原作なんですけど、著者はスターリング・ノース。そう、あの主人公なんです。私、幾度も繰り返し読みました。私が同じ本(物語)を繰り返し読むなんてめずらしいことです。他には池波正太郎氏の「鬼平」と谷崎潤一郎の「痴人の愛」くらいでしょうか。我ながらヘンな組み合わせだと思いますが(笑)
 名シーンといえば、ルパン三世カリオストロの城の名場面も懐かしく見ました。私はあの作品で「矜持」というものを学びました。もちろん、ルパンがクラリスを抱かずに遠ざけ、「やあっとお日様のあたるところに出てこられたんじゃないか・・・」と作り笑いで話す場面。銭形警部の「馴れ合いはせん」にもちょっと痺れたな。
 カリオストロの城の監督は宮崎駿氏ですが、私は氏の作品ではこれが一番好きです。TVシリーズだと「未来少年コナン」ですね。「勇気」「誠実」がこの作品にはあふれています。登場人物がことごとく「いい人」になっていき、最終話のタイトルは「大団円」。まったく文字通り、大団円でした。私大団円、好きです。ラピュタはコナンの焼き直しってことでいいですね?(→誰にいってる??)

 それにしても、子供向け作品は侮れない。そこで学んだことが、実は生活のいろんな場面で、人生の岐路で、私を動かしてきたような気がするんですよね。それが良かった、というわけではありませんが。
 おっと1位は宇宙戦艦ヤマトでしたか。あれもストイックな男たちの話だったなあ。沖田艦長と古代進の確執と、それを越えての信頼、そして響きあう薫陶は私の理想とするところかもしれません。

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2006年2月 6日 (月)

阿智村長と懇談

 今日は午前中診療所引率。風邪引きがひとりいまして。結構込んでいて、1時間くらい待ったかな。そうそう、塩カルで真っ白になった公用車の洗浄もやったぞ。足元が凍っていてツルツルな状態だったから、結構こわかった。
 午後は阿智村役場にて尾張旭市役所の方と懇談。小5および中2の体験キャンプの場所として遊楽館はいかがでしょう、という話をさせていただきました。
 その後1時間程度、阿智村村長とも懇談する機会を得ました。山村留学の今後、遊楽館の今後を浪合地区の未来を展望しながら意見交換させていただきました。山村留学や体験施設をさらにグレードアップし、またPRし、世に問うことをしてゆく必要を感じました。

 そうそう、今朝まで2泊3日、ボランティアのふたりが通年合宿を手伝ってくれていました。とてもたすかったし、こどもたちもうれしそうでした。
 来年度の園生は13名が決まってきました。残り1名ですが、ここにも複数の応募があります。今年並みの規模を維持することはできそうです。

 そんな中、家内がインフルエンザで寝込んでしまいました・・・

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2006年2月 5日 (日)

歌はいいねえ、歌は

山村留学の5,6年生と一緒に歌った歌です。
「秋桜」谷村新司
「夢をあきらめないで」岡村孝子
「春よこい」松任谷由美
「隣の町のお嬢さん」吉田拓郎
「夏休み」吉田拓郎
「案山子」さだまさし
「勝手にシンドバット」サザンオールスターズ
「とんぼ」長渕剛
「人として」海援隊
「ベストフレンド」kiroro

結構こどもたち、古い歌も知っています。
お父さんお母さんが僕と同じ世代だからですかね。
ヘタクソな私のギターですが、みんなと大きな声で歌うと気持ちいいです。

「今はまだ人生を語らず」を知ってた小5男子もいましたぜ。

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2006年2月 4日 (土)

webで作る写真集

 ここ2日で写真集を3つ作りました。
 webで作るのでパソコンがあれば出来ちゃいます。
 納品まで2週間くらいかかることと、完全オーダーメイドなので料金が高いのがネックですが、でも出来上がりはいいので昨年からちょくちょく作っています。
 今回作ったのは「浪合村の通年合宿」、「乗鞍2005」、「むらさき観戦記2005」です。
 「浪合村の通年合宿」(全20P)は前所長へ感謝をこめてのプレゼントとして。ここ数年の写真を中心に四季の活動や風景をチョイスして構成しました。
 「乗鞍2005」(全20P)は今年度の乗鞍キャンプの記録、および次年度以降の説明アイテムとして。今年度夏、3年ぶりに山頂に立てたあの感動をまとめました。
 「むらさき観戦記」(全12P)は、これはライフワーク(笑)京都パープルサンガの1年を振り返る写真集です。今年で3冊目。1冊目はエッセー風、2冊目から写真集のテイストにしました。今年は私のサイトで観戦記をほぼ毎試合書いたものですから、そこからテキストも引用しながらつくりました。「です、ます調」を「だ、である調」に変えたり、一部修正、加筆などもしましたが、基本的にスピーディに作ることができました。
 ご希望の方は(笑)、連絡ください。でも1冊5000円くらいしちゃいます。

 ところで、このページの本文と写真はまるで関係ありません。この写真は、もちろん僕が撮影したものですが、とても気に入っている1枚です。

 なお、アルバム作成はCANON iMAGE GATEWAYのサービスを利用。キヤノン製品購入者がログイン可能なサイトです。デジカメでもプリンターでもログインは可能のようです。ログインしなてもコンテンツは見ることができます。もし興味がある方がいらっしゃればのぞいてみてください。

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2006年2月 3日 (金)

インフルエンザと打ち合わせふたつと節分と食事当番とスキー引率

 siがインフルエンザです。今日で3日目。だいたいからしてオーバーなやつなので、「はあ、しんどい、たいへん、はあ、しんどい、たいへん(繰り返し)」。
 その上何か口にするたび「げえええ」ともどします。丸1日以上口からものが入っていかないので、今日はお医者さんに相談に行ってきました。猛烈な阪神タイガースファンの先生、「そうやのう、300ccほど入れとくか」と言ってくださり、siくん初点滴となりました。点滴の最中にも2回ほどもどしたのですが、点滴が終わってうちに帰り、一眠りすると復活してきました。
 「アイスクリームが食べたい」「寿司くわせろ」
 ・・・元気なのはうれしいです。

 さて、今日はお昼から仕事。センターに行くと若い男子職員が台所の大掃除をしていてくれました。何か思い立ったようです。天啓でもあったのでしょうか。徹底的にやってます。私はといえば今日は打ち合わせが2本入っていたので、手伝ってやることもせず、資料作りに励んでしまいました。

 1本目は新所長との打ち合わせ。新規園生募集の現状報告、修園式・入園式の日程や招待客について、NPO法人化について、事業計画、事業報告のだんどりについて、センターの契約や規約について、などなどです。所長の居所が合併により遠くなってしまったのですが、連絡が疎遠にならないよう気をつけていきたいと思っています。

 2本目はA高校のY先生との打ち合わせ。来年度の2年生の総合的学習の時間の年間計画策定が議題でした。というか年間計画はできていたのですが、それに対しいくらかアドバイスをさせていただいた、というのが実情です。やっぱり学生にとっていい実習になって欲しいですから、そのための時間の使い方ってどんな風がいいんだろ、みたいな話です。保育園実習をメインにすえたこの活動、来年が2年目です。私は講師という役目をいただいていますが、地元高校の取り組みですから出来る協力はなんでもしたいと思っています。

 それからセンターに戻り、食事当番といっしょに夕飯をつくります。今日はクリームシチューだ!
 で、夕飯前にみんな集めて節分の豆まきをします。16人でやると、広く思える施設でも窓という窓全てで「鬼は外~」とやったところでたちまち済んでしまいます。外にまいた豆は、きっとアイガモが明日にでも食べてくれるでしょう。
 それからナイタースキーの引率です。今日は11名のこどもたちがセンターからは行きました。他にも幾人か地域のこどもたちが来ていました。けど寒かったですよ~。久しぶりに寒かった!かえりは21時くらいでしたが、マイナス8度。
 途中、寒くてまいってしまい、早めにセンターに戻る子も3人出ました。あまりないことです。ここのところ暖かかったから、体がびっくりしたかな?

 21時30分ころからは中学生の学習につきあってやり、こどもたちが就寝してからは記録の整理、ブログ日記の更新(職場のですよ。これじゃないです)などをします。 水道を止め(凍結防止のため、止水栓で冬は毎日止めます)て、さあやれやれ、と思ったら、洗濯機設置槽の排水口のつまり発見!あたりは水浸し。仕方ないのでまわりの水をふきとり、排水口のつまりを取り除きました。さあ、今度こそお疲れさま~って言えます。やれやれです。
 山村留学の1日はいろんなことがあります。 

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2006年2月 2日 (木)

親父の誕生日会

 私の親父が3月で70歳になります。(京都で元気に仕事してます。)
 それを祝うため、家族一同で集まり、ちょっとした祭りをしよう、という話になりました。
 区切りを大切にする親父ですし、息子(私含めて3人)はみんな家族を持っているので、一同に会するとのべで14人になります。にぎやかな会になりそうです。
 息子達は大阪、浪合、蓼科(ん?今は浦安だったっけ??季節によって違うものですから)と分散しちゃってるので、電話で打ち合わせしています。
 「こんなふうに考えてるけどどうかな」
と母親に電話で相談してみたところ
「う、うれしいいい」
と泣かれてしまいました。ささやかなことしかできないのにね。
 親父は親父で
「金はオレが出してやる」
とかなんだか話をぶち壊しにするようなことを言い出しちゃうし(笑)
 親孝行、したい時には親はなし・・・なんてことにならないように、
一緒に住んでやることが一番の親孝行だと思うのですが、思うようにはいかず、こんなことしかできないのもなんとなくもどかしいです。

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2006年2月 1日 (水)

せつないことがあってもさ。

さあ、
夜明けだ。
懐かしい空気をたくさん吸おう。
ラストダンスを楽しく踊るために、
なれあいはせず、
ガタガタ言わず、
確かなものを探しに行こう。
夜露に濡れた道を歩くんだ。
美しいはずだよ、今日も。明日も。

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