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2006年2月21日 (火)

僕が通年合宿の仕事をしているわけ④

③の続きです。

・・・ここまで来て気がついたのですが、①、②は「です、ます調」で、③以降は「だ、である調」になっちゃってます。ごめんなさい。



 小学校の衰退は地区の衰退を強くイメージさせる。町としても、町に3つある小学校の中で、生田の学校ばかり優遇するわけにもいかない。そこで地区民が立ち上がり、「おらが通年合宿」をつくって児童増に向け立ち上がったわけだ。
 うちの団体はソフト提供と人材提供をすることになった。しかし小さい団体にはすぐに提供できる人材がいない。人選に入ろうとも、その人が不足しているのだ。まわりを見渡しても、身軽に移動できるのは僕と大久保くらいだつた。そして現場指導経験は僕に分があり、志向に関して
も僕の方が強かった。僕はすぐにも立候補したかったが、しかしここには僕がいなければ滞る仕事もたくさんある。躊躇した。したが、しかし決めた。
「ふたつとも、やる」
これだ。
「そう来ると思ったよ」
大久保が言った。
「そういうやつだよな」
僕は何も取り得がないが、しかし人より運動量、というか仕事量が多かった。
器用にできないからその分人より多く動こう、働こう、これが当時の(一応今も)僕の信条のひとつだった。大久保はそんな僕のことを知っていた。
「おまえがやれない分はオレがフォローしてやるよ」
大久保が憎らしいほどさらりといった。
僕は希望を理事長に申し出た。理事長は翌日、僕の職員昇格と1年の出向を発表、僕の任務は松川通年合宿所所長として合宿所の設立し、その事業を軌道にのせ、新所長を発掘してパトンタッチすること」だった。僕の通年合宿のキャリアはこの時スタートした。

 とにかく、お金がない。町はこの事業に関してまったくお金は出さない。またうちの団体も補助金をもらって事業を興すことを潔しとはしていなかった。幸い、地区住民は通年合宿を誘致してくれただけあって、とても協力的だった。合宿が行える古家を捜し、参加者募集を行い、スタツフを募り、役場や学校へ幾度と無く出かけ、近所に挨拶回りをし、事業計画をたて、予算をたて、保険に加入し・・・やることはいくらでもあった。
 キャンプの仕事のノウハウがかなり生きた。でも、当時私は24才。もちろん独身である。はっきり言って、まだこども。周囲の好意と協力なしに、これらのことはできなかったと断言していい。「ありがとうごぎいました」という言葉が、本当に心の底からいえるようになった。
 オープンぎりぎりまでスタッフが決まらなかったが、3月に入って門野(旧姓星=きんぎょ)を得ることができた。もうひとり男性スタッフがいて、私と合わせて相談員は3人。こどもは6人集まった。補助金も何もないので、当然人件費も充分にはない。3人のうちひとりを住み込み研修生とさせてもらった。
 僕の身分は出向なので、給料は出向元からもらった。
 通年合宿がスタートすると、生田から飯田市山本まで通う日がはじまった。2足の草鞋はいやではなかったが、往復2時間半の通勤時間には閉口した。1日24時間が長時間通勤することによって21時間30分になってしまうのだ。
 はじめての通年合宿はいろんなことがあったが、キャンプの仕事を終えて合宿所にもどると大好きな現場がそこにあるっていうのはわりと良かった。
 ハタから見ると四六時中仕事していて大変だ、って感じがしたかもしれないが、僕はそうでもなかった。畑を耕し、ヤギを飼い、犬や猫と戯れ、薪で風呂をたき、山菜を探す・・・そこに都会っ子がいっしよにいて、目を輝かせて・・・ばかりじゃないが、しかし自然の中でみんなと暮らすってことは本当に楽しかった。家庭訪問の折り、松川中学校の某先生が、
「これこそ本当の教育の姿かもしれないなあ」
とおっしゃってくださつたことが印象的だった。

 大久保は短期の仕事を本当によくサポートしてくれ、合宿所のスタッフは献身的に通年合宿の日常を支えてくれていた。ずいぶんと迷惑をかけてしまったものだ。また僕の休日は、大げさではなく月に1日程度だったのではないか。勤務カレンダーでは休日でも、キヤンプの事務所か合宿所に顔を出すのは日常茶飯事だった。仕事に打ち込むとはそういうことだと、僕は思い定めていた。それは僕だけではなく、大久保も他の仲間も同じだった。
 たまに飲む大久保との酒がうまかった。うまかったなあ。

 疾風怒濤の1年がすぎようとしていた頃、僕は結婚する決意をした。25才の春だ。
 早いが、その方が僕にとってはいいと思った。嫁さんになってくれる人は生田の人だった。もっとも出会ったのは学生時代で、しかも浪合がその場所だった。思えば不思議な縁である。
 僕には本当に不似合いな、(当時は)かわいい嫁さんだった。菜の花が咲く頃、僕の任務は概ね完了の見通しが立った。次の所長も見つかり、引き継ぎを終え、4月から僕は飯田の事務所に戻った。清内路村の村営住宅で新婚生活が始まった。大久保はデザイナーになるため事務所を去った。再びふたりで仕事をするようになるのは、まだ少し先のことだった。
(つづく)(ここまで、平成15年度文集掲載分)

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